当サイト掲示板でおなじみの、予備学生13期、元海軍大尉・土方敏夫さんの人気連載をまとめました。
なお、ご興味のおありの方は、土方さん著・「海軍予備学生零戦空戦記」(光人社)を是非ご一読ください。(零戦の会)

予備学生のつぶやき(1)

 土方です。皆さんお元気で何よりと存じます。私は、神立さんからご紹介いただきましたが、13期予備学生として海軍に入隊、機種はゼロ戦です。元山空で特乙3期の教官を務め、20年4月から、戦闘303飛行隊で、沖縄戦に参加、特攻隊の直援や、邀撃戦などをしました。
 ワードに、海軍時代のことをぽつりぽつりと書いています。年寄りの戯言かも知れません。時々紙面を拝借しようかと思います。ご批評などいただければ幸いです。


1.志願と云うこと
 13期予備学生の戒名は「衝動院感激居士」という。旨い表現であると思う。13期は志願であった。同じ予備学生でも、14期は徴兵で入隊し、その後試験を受けて、予備学生になった。
 いずれは行く道ならば、自分から進んでというのと、徴兵され、兵隊よりは将校のほうがよいというので選んだ道とは、大きな違いがあるように思う。
同じ学徒出陣の予備学生でありながら、13期と14期ではどこか違う、というのが定評である。善し悪しの問題ではない。何か異なっているとすれば、こんなところにあるのではないだろうか。


2.教師の立場
 当時学校では、海軍飛行予備学生の宣伝や、陸軍特別操縦見習士官の宣伝が行われていた。教師のなかにも、進んでその片棒をかついだ者と、そうでなかった者とがいた。片棒をかつぐのは楽である。片棒をかつがずに将来を見極めて、「この戦争で命を捨てるな」という教師は、まれではあったがいたのも確かである。これは勇気のいることであった。まかり間違えば、憲兵隊に連れて行かれるようなことにもなりかねない時代であったから。
 戦後片棒をかついだような教師ほど、民主化などと叫んでいた。なかには恥を知るというか、自分の田舎に行って百姓をする教師もいたが…………。
 教師というのは大変な職業である。


3.海軍と陸軍
 私は、海軍予備学生の試験だけを受けた。陸軍の特別操縦見習士官は受けなかった。配属将校のいかにも神がかった陸軍的な考え方に反発を覚えていたことが原因である。
 後になって予備学生の仲間に聞いてみると殆どの者は、両方を受験し、両方とも受かっている者が多かった。そして海軍に来たという。
 海軍に入って、一番嬉しかったことは例の「軍人勅諭」を暗記させられなかったことである。
「海軍では、もっと大切な勉強をすることがある。軍人勅諭は五箇条だけ言えればよい」ということである。学生時代には、無精をしてとうとう暗記しないままであったから、これは嬉しかった。
 海軍と陸軍では、何か大きな風土の違いのようなものがあった。


4.公と私
 昔の若者は、「公」という概念が優先していた。今の若者は、「私」の概念のみが優先しているようである。いずれにしても、偏っている。
 「中庸」というのはいつの時代にも、大切であるように思う。

予備学生のつぶやき(2)−1

前回(1)は、入隊するまでのことを書きました。今回は、土浦海軍航空隊のことです。
基礎教育時代で、ここで13期は、前期と後期に別れます。
1分隊から13分隊までありましたが、各1分隊の人数は、200名ぐらいでした。
1分隊 〜9分隊    後期 10月〜1月  地上基礎教育4ヶ月
10分隊〜13分隊   前期 10月〜11月 地上基礎教育2ヶ月 (理系と師範が主)

 兵隊が着用する白い事業服で、兵舎で吊り床の生活でした。前期2ヶ月組は、早く飛行機に乗れると喜んだものですが、13期は前期がいち早く戦線に投入され、死亡率が高かったのです。

 基礎教育は、土浦航空隊と三重航空隊で行われました。話に聞くと三重航空隊は、士官として扱ってくれたようで、学生たちには評判が良かったようです。
 私は、土浦航空隊の前期2ヶ月組、11分隊6班で、分隊長が千野大尉でした。


              2)土浦海軍航空隊
1.入隊
 昭和18年9月13日、土浦航空隊に入隊することになった。父は、私の挨拶に「しっかりやってこい」といったが、母は黙ってうつむいていた。そして小さな声で「送っていかないからね」といった。母の気持ちが、私にはわかりすぎるくらいわかっていた。同じ町会の宮田君と一緒に、阿佐ヶ谷の駅まで、国防婦人会の皆さんが送ってくれた。
 上野の駅や、土浦の駅では早稲田・慶応・日大・法政など、大学の壮行会が華々しく行われていた。
 土浦航空隊の隊門を入ると、自分の所属する分隊を書いた名簿があって、そこに集まるのだが、何しろ大変な数である。これは仮分隊で、私は柔道場にマットを敷いて寝泊まりすることになった。この仮分隊が何分隊であったかは忘れてしまって憶えていない。毎日試験の連続で、不適な者は土浦を次々と去っていった。不安な毎日であった。
 13期の予備学生で、入隊が9月の13日、俺たちはアメちゃんには縁起の悪い数字だ。と喜んでいる奴もいたが、それどころではなかった。
 いろいろな試験の結果、篩にかけられて残った者たちは、10月1日に、海軍13期予備学生として正式に採用されることになり、土浦航空隊・三重航空隊に、入隊することになった。
 1分隊から9分隊のものが後期学生、10分隊から13分隊までの者が、前期学生と分けられた。私たち前期の者たちは、2ヶ月で基礎教育を終了して、飛行機に乗れるということで、大喜びであったが、この2ヶ月の差が、後になって、前期の予備学生はいち早く戦線に投入され、消耗率が非常に大きくなるのであるが、そのようなことは当時全然考えなかった。


2.貴様と俺
 海軍に入ってすぐに「俺」と「貴様」の呼称を使うように云われたが、私たちにはこれがなかなかぴんと来なかった。すぐになれる奴と、なんとなく違和感があり使い難い奴とがいた。私などは「俺」にはすぐに慣れたが、「貴様」の方は使いにくく、俺と貴様が、自然に出るようになるのには、ずっと後になってのことであった。入隊当時は、あまりこだわらず、無理をして俺と貴様は使わなかったように記憶している。娑婆気の多い予備学生には、海軍は住みやすいところであった。


3.上官の呼称
 これも慣れるまでは、ちょっとまごついた。上官を呼ぶのに○○大尉とか、○○分隊長とか、いえばよい。といわれてもなんだか申し訳ないような気がして、当初はとまどったが、馴れというのは恐ろしいもので、この方が簡潔で親しみやすく、自然に使えるようになるには、そんなに時間がかからなかった。
 かえって陸軍のように、○○中尉殿などのようにいうほうがおかしく感じるようになった。


4.士官服
 土浦で初めて士官服を着用したときは、感激した。簡素でネービーブルーの色がよい。いまだに、私はスーツを作るときは、殆ど無地のネービーブルーである。同じようなスーツが何着もあるので、女房に笑われている。
 自分では、このスーツに戦闘服という呼称をつけている。短剣を吊ることが出来ないのが残念である。帽子も少尉のときは、真面目で支給されたとおりであったが、中尉になったとたんに、先をとがらせたり、自分で格好良くなおしてかぶっていた。海軍というところは、意外に融通の利くところである。


5.階段2段跳び
 海軍は軍艦の生活が全ての基本になっている。狭い階段を多数の人間が移動するには、全力で二段跳びが原則というのも頷ける。習慣というのは不思議なもので、終戦になり、娑婆に戻っても階段二段跳びの習慣はずっと続いた。
 不思議と階段の前に立つとムラムラとした気持ちになる。70才になってやっと、一段づつ上るようになった。若いときの躾は大切である。


6.国体明徴の話
 土浦航空隊で、平泉澄博士の2時間にわたる講演を、予備学生約2500名全員が、大きな格納庫の中で、手箱を腰掛け代わり使って聴いた。
 国体に関する話であったが、長い時間、あくびをこらえるのに辛い思いをした。格納庫のなかに2500名の聴衆、寒さの中で小便にも行けず、その場で漏らした者もいた。中座した者は後で殴られ、漏らしたものは褒められた。
 講演終了後、誰も感心も感激もしなかった。自ら海軍を志願したのに、当時の予備学生は、意外に冷静であったような気がする。
 学問が、政治の手先になるのは、いつの世でも間違いのもとである。


7.巡検ラッパ
 海軍にしても、陸軍にしてもラッパの合図は独特である。最初に入隊した土浦海軍航空隊で、今日一日が無事に終了し、吊り床のなかでホッとするひととき、どこからともなく聞こえてくる巡検ラッパは、何かもの悲しく、涙をそそられるような響きがあった。軍隊の音でなく娑婆の音のよう聞こえた。
 朝から晩まで、コマネズミのようなめまぐるしい生活が終え、吊り床に入ると、ホッとして人間性を取り戻す。何故か感傷的になる。この時静寂のなかに流れてくる巡検ラッパの音は、合図のラッパと言うよりは、私たちが飢えていた音楽があり、芸術があった。
 予備学生は、だれでも皆、巡検ラッパには魅せられ、懐かしく思っているようである。


8.号令
 当時の学生は、学校で「教練」という時間があり、配属将校のもとで、軍隊らしい教育を受けていた。すべて陸軍式であった。したがっていろいろな号令も、覚えさせられた。
 海軍に入ってからは、同じ軍隊でも号令がちょっと違っていた。海軍の号令の方が私たちには何となく馴染みやすかった。特に気に入った号令は「かかれ!」であった。要するに「はじめ」の意味であるが、かかれの号令には、海軍独特の雰囲気があった。
 これから攻撃にでる時に、指揮官の「かかれ!」の号令のもと、わが愛機に向かって走っていく時などは、何となくその雰囲気にピッタリくるような号令であったように思う。


9.敵性語
 戦争というものは、人間の理性を押しつぶしてしまうような一面がある。どう考えたって、おかしいと思うようなことも、平気でまかり通ってしまうような怖さがある。
 その一つの例が、「敵性語」といって、英語を使わないと云うお達しである。学校教育からも英語を閉め出し、普通の生活でも英語を追放するというのである。
 笑い話の材料によく使われるのが、野球である。「ストライクがヨシ」、「ボールがダメ」なんてのは、全くお愛嬌ものである。「ガラスが透明板」とは実にふざけている。じゃあ曇りガラスはどうしてくれる。といいたくなる。
 海軍は、スマートで英語を平気で使っていた。日常の生活から、用具の名前にいたるまで、英語そのものであった。ガンルーム、などの名称をはじめとして、エスなどの海軍常用の隠語、テーブルのエンド式日本語的使い方、とにかく捌けていた。
 軍艦・飛行機などを扱うには、この方がずっと合理的であり、理にかなっていた。学生たちに海軍の方が人気があったのも、このような考え方があったからではないだろうか。
 
 でも、私のゼロ戦に燃料を補給しにきた整備兵が、年輩の応召兵であった。翼の上で、燃料パイプを差し込み、大きな声で「ヤッホー」と叫んでいるのだが、燃料が全然送られてこない。燃料車の下士官も意地が悪い。ヤッホーじゃなくて、「ゴーへー」と教えてやったら、やっと燃料が送られてきた。誠に気の毒な話であるが、応召兵には、英語がちょっと無理であったようだ。
「ゴー アヘッド」の意味もわからず、「ゴーへー」では、憶えにくいものね。



10.挙手の禮
 当時の学校では、教練なるものがあり、陸軍式の訓練を学生は受けていた。海軍に入って一番先になおされたのが敬礼であった。右のひじを横に張らないで、右手を斜め前から挙げる敬礼である。習慣というもの恐ろしいもので、当初、陸軍式がとれるまでは意識して敬礼をしたが、自然にいつの間にか慣れてしまった。ところが慣れてから、陸軍式の敬礼を見ると、何故か吹き出すような可笑しさを感じるようになった。
 敬礼そのものが海軍と陸軍を、それぞれ象徴しているように思われてきたのは不思議なことである。いまでも、海軍の挙手の礼はスマートで好いなと思っている。


* 次回もまだ土浦です。飛行機に乗るのは、土浦海軍航空隊の次の霞ヶ浦海軍航空隊、羽田分遣隊からです。
* 若い人たちが、関心を持ってくださるのは、大変有り難いことです。感謝しています。

「予備学生のつぶやき」(2)−2

 前回に続いて、土浦海軍航空隊です。予備学生も、土浦では兵隊並みの待遇で、とにかく海軍に慣れるということで、四苦八苦した頃です。
 次回からは、いよいよ、「赤とんぼ」で待望の空を飛ぶことになります。


11.食卓番
 土浦の生活は、兵並みの生活であった。一つの班が10数名で、何事も一緒にする。飯の時間には、交代で食卓番になる。烹炊所から班員の食事をバケツのような容器で運んできて、飯を盛りつけるなど、食事の支度をする。食い盛りの若者であるから、常に腹ぺこである。自分の食器には、ぎゅう詰めに飯を盛る。
 これから食事というときに、下士官の班長が、ある日突然「座席を一つずつ右にずらせ」という。年期の入っている下士官は、全てがお見通しであった。懐かしい思い出でもある。


12.洗面
 海軍の洗面所には、顔を洗う容器がない。蛇口から水が出放しである。歯を磨き、口をすすぎ顔を洗う。とにかく短時間にするには、この方が能率がよい。海軍は水を大切にすると云われているのに、最初は変だと思い、もったいないような気がしたが、慣れるとこの方が自然になった。


13.下士官のいじめ(手旗)
 予備学生という制度は、矛盾するようなこともあった。兵曹長の上で、少尉候補生の下という位である。従って、学生の頃は、教える下士官の方が、非常にやり難かったのではなかったろうか。
 いま教えている学生も、いったん隊外に出ると、上官になってしまうわけだから、これはやりづらかったと思う。したがって、上手ないじめ方をされたことがずいぶんあった。たとえば、手旗の練習の時などは、両手を挙げた「ハ」の字の姿勢で、長々と説教をするなどの類である。これには随分まいったが、制度の矛盾を考えると、誠にごもっともと、甘受していたというのが実情である。


14.棒倒しと食事抜き
 毎週土曜日の午後は、棒倒しの行事があった。服装は体操ズボンだけ、上半身は裸で、しかも裸足である。分隊ごとの対抗であるから、分隊長や分隊士がここぞとばかりにハッパをかける。「どんなことをしても負けるな」と云う。必ず勝敗があるのだから、これは無理な話である。強い分隊もあれば弱い分隊もある。連続負けをすると大変である。「貴様らはそれでも男か、最近は青い顔をしている。どうも虫がいるようだ。今日負けたら、虫下しを飲ませてやる」となったら最後である。虫下しの薬は晩飯抜きで飲むのだから、要するに晩飯抜きということである。
「さあ大変!」と必死になっても、相手が強いと負けてしまう。このときの、夕食抜きにはまいった。今でも飯抜きのつらさは、はっきり憶えている。
 棒倒しの前に、江村教育主任から「貴様らの棒倒しはたるんでいる。三重空では既に3人も死者が出ているのに土空では一人も死んでいない。今日は死ぬ気でやれ」という訓辞があったが、これには私たちも後で憤慨したものである。


15.たばこ盆
 海軍というところは、なかなか捌けていた。「巡検終わり、たばこ盆出せ」という号令があった。このときは、下士官も兵も、おおっぴらに、たばこ盆の周りに集まって、リラックスできた。
 日常でも、休憩時間にはたばこ盆のあるところでは、喫煙することが出来た。兵舎の外に、大きな灰皿があって、私たち予備学生は良く集まって雑談をした。このときが一番人間らしくなるときであった。学生らしい娑婆気たっぷりの話をすることが出来た。
 寒い冬の盛りでも、タバコの火で暖を採りながら、戸外のたばこ盆は賑わった。「おい、死ぬ前に一遍でよいから、ベッドの上でタバコが吸いたいな」とは、共通の願望であったが、学生教程を終了して、教官配置になったら、これが実現することになった。やはり海軍に入って良かったとは、同室の同期生の言である。


16.外出
 軍隊という閉ざされた社会にはいると、外の空気が凄く懐かしい。軍隊の外を娑婆と云う言葉で呼んでいたが、実に当を得た表現であった。地獄といわれた土浦航空隊の生活で、この娑婆との唯一の接点が、日曜日の面会であった。この日は、土浦の旅館、公園などは面会の人々で賑わった。
 当時は物資が乏しくなってきた頃であったが、父母兄弟姉妹や、恋人が、おはぎ・赤飯などの好物を作って、はるばる汽車に乗って土浦まで面会に来てくれたものである。予備学生が人間らしい顔に戻る日であった。郷里が遠く、面会人の来ない者は、同期の親族と一緒にお相伴に預かった。家族親戚の絆が強いよき時代であった。土浦航空隊で、一番悲しかったことと云えば、外出禁止の罰直であった。誰かが、ミスをすると全体責任と云うことで外出禁止、また、棒倒しに負けたとか、いろいろ原因はあったが、外出禁止だけは、納得がいかない罰であった。隊門の外で、衛兵に何とかならぬものかと、頼んでいる家族の姿を恨めしく眺めながら、軍歌演習などをやったことが何回かあった。これは辛い思い出として残っている。
 同じ班の者で、静岡の出身で体の弱いのがいた。彼は心臓が弱く、日曜日には外出もせず、隊内でゆっくりしていた。その彼が外出する私に、町の薬局で「救心」という心臓の薬を買ってきてくれと頼む。そんなことが何回かあったが、彼は偵察に配置が決まり土浦で別れてからは、その後の消息は聞いていない。いまでも、薬屋の前を通るときに、ふと彼のことを思い出すことがある。


17.腰の短剣
 「腰の短剣にしがみつき、連れていきゃんせ何処までも…………」という歌がある。これが「腰の軍刀にしがみつき」では様にならない。短剣というのは海軍士官のシンボルであった。見た目は格好がよいが、短剣そのものは全くのおもちゃで、彼女にリンゴの皮をむいてやることぐらいしかできない。
 でも、おもちゃであり、格好だけであっても、これを腰に吊ると、シャンとして海軍士官の自覚が出てくるから不思議なものである。
 人間とはおかしなもので、格好も大切である。今になって考えてみると、海軍は下士官の服装についてもっと配慮すべきではなかったか。海軍の中枢になって一番活躍したのは下士官であり、その下士官の服装がいささかお粗末であったことは否めない事実である。
 腰の短剣を吊るたびに、予備学生の私はそんなことを考えていた。


18.5分前
 躾というのは、大切なことである。海軍では、いろいろな躾をされたが、5分前というのは、すべての基本のように思う。余裕と云うことかも知れない。
 「何をするのも五分前、飯を食うのも五分前」などという戯れ歌を歌ったこともあるが、海軍でしつけられた諸々のことは、一生を通じて生きているように思う。
 「スマートで、目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」なんてのも良かった。海軍も陸軍も、軍隊であるから、厳しく躾をしたことには変わりないが、海軍の方がどうもスマートであったような気がする。学生出身の予備学生には、馴染みやすかったと言えよう。


19.軍歌演習
 楽しい日曜日が終わり、隊門をくぐるといきなり待っているのが軍歌演習であった。輪になってしっかりした歩調をとり、軍歌を声高らかに歌うのである。一つのけじめである。軍隊に戻ったという自覚を呼び起こさせるには、巧い方法であったように思う。これですっかり娑婆気が抜け、目の色が変わり緊張する。今でも、ここ一番というときには軍歌を歌いたくなる。


20.トンツー
 トンツーとは、いわゆる無線電信のことである。受信1分間に80字、送信1分間に60字ぐらいを目標に、2ヶ月で完成だから、大変である。寝ても起きても、「トツー」を口ずさんでいた。早耳の学生が、「オイ三重空では、イトー、ロジョー・ホコー、だぞ」という。要するに憶え方の相違である。
 イの符号「・―」を土浦では、「ト・ツー」、三重では「伊藤」
 ロの符号「・−・−」を土浦では「ト・ツー ト・ツー」三重では「路上 歩行」といった具合である。どちらにも長短あったようであるが、入門しやすいのは三重の方であったようだ。
 私は、元山を出撃するときに、電話が効かない距離になって、無線室の下士官が聞こえなくなるまで「土方中尉の武運を祈る」と無線を送ってくれたのを思い出すぐらいで、実用には全然使わなかった。

 発光信号に至っては、実際に使ったことは全然ない。偵察にいった同期は、これが商売であったようだが。


21.試験(何でも試験)
 海軍というところは不思議なところで、何でもかんでも、教えたことは全て試験をした。手旗でも、トツーでも、数学でも、航法でも、実技も、講義もすべてに試験があった。こんなに試験の好きなところはない。などといって私たちはこぼしていた。
「もう試験とはおさらばと思って海軍に入隊したのに」とぼやく奴もいた。これらの結果が後にハンモックナンバーの順序になったのかも知れない。
 それにしても5000人の人数であるから、処理にも苦労したのではないだろうか。


22.手相と骨相
 土浦では、とにかくいろいろな試験があったが、まさか手相と人相を見られるとは思っていなかった。実際にこの手相・人相の結果は搭乗員の適否にはよく当たるとかで、私たちもそのテストを受けた。中年の人が5,6人ぐらい列んでいる部屋で、じろじろ見られるのは、あまりいい気持ちではなかった。
 手相人相で、搭乗員不適になるのは、何か割り切れないものを感じた。幸い戦闘機になれたので、文句を言うつもりはないが。
 どんな骨相のものは艦爆によいとか、戦闘機はO型が向いているとか、下馬評はいろいろあったが、いまだに私にはわからない。戦闘機には、O型が多かったような気がするが、これもしっかりしたデータは何もないのでいい加減である。
 合理的が売り物のような海軍も、こんな面白いことがあったのは、不思議であり、お愛嬌である。


23.白手袋
 海軍の映画を見ることがよくあるが、不思議に思うのは、恋人と会うときなどに、白い手袋をしていることである。
 予備学生になったときには、軍服一式を与えられた。そのときに、たしか白手袋もあった。しかし、白い手袋をした記憶が私には全然ない。
「白い手袋なんざァ、田舎士官のすることよ」といった分隊長の言葉が、耳に残っている故かも知れない。映画に出てくる士官が白い手袋をデートのときなどにしているのを見ると、思わず吹き出してしまう。恋人の前で目立とうとしているピエロのように見えてしまうからであろうか。


24.靴磨き
 おしゃれの最たるもの靴である。というのは、目立たぬところまで、しっかり気を配れということのようである。「祝日の式に出るときには、式場に入る前にちり紙を出して、人目につかぬようにちり紙でサッと靴を拭え」と教えてくれた教官がいた。
 身だしなみの神髄を教えてくれたように思う。いまでも、この習慣は生きている。

予備学生のつぶやき(3)−1


3)霞ヶ浦海軍航空隊・東京分遣隊
 
 昭和18年11月30日、地獄の土浦で基礎教程を終了し、霞ヶ浦海軍航空隊・東京分遣隊に着任します。東京の羽田飛行場は海軍と民間が共同で使用していました。土浦航空隊と、三重航空隊から総勢約80人が着任しました。

 12月1日には分隊長・飛行士などから訓辞があり、飛行服などを受領し早速飛行作業開始になったのが、12月2日です。
 初めて空を飛ぶわけです。慣熟飛行で30分飛びました。飛行機は九三式陸上中間練習機という、2枚羽根のいわゆる通称「赤とんぼ」で、その時の感想です。教官は福富中尉、予備学生の先輩でした。

 地上滑走でまず驚きました。操縦桿は座席の端から端まで動き回り、エンジンをぶんぶん吹かして、地上を滑走することは大変なことと、思いました。
 滑走路について「では離陸するか」と教官の声、「はい」と返事はしたものの、さあ飛び立つとなると、極度の緊張です。
 いきなり、エンジンの音が高鳴り、するすると飛行機が滑り出します。あっと思うまもなく、尾翼が水平になり、それまでエンジンで前がよく見えなかったのが、はっきり目標が見えるようになります。どんどん機のスピードが上がる。
 大変だ!飛行場のエンドだと思い、思わず目をつぶってしまいましたが、いきなりフワリとした感じで、飛行機はいつの間にか海の上を飛んでいました。
 空を飛ぶという言葉からは、「すごく速い」ということを連想されると思いますが、現実は、意に反して空中に浮かんでいるというのが実感です。速さを感じたのは離陸の瞬間だけです。
 東京湾の上に宙吊りになっていると言った感じです。スピード感などは全然ないのです。エンジンの音だけが凄くうるさく聞こえます。
 へー、飛ぶと云うことはこのようなものか、これは気持ちの良いものだと思いました。高度が高くなればなるほど、このように感ずるはずです。
 直進飛行、左旋回、右旋回ぐらいが慣熟飛行でしたが、空を飛ぶとはなんて快適なものであろうか。と言うのが実感でした。
 このおかげで、遂に78才まで空を飛ぶことになるのですが、初飛行というのは本当に昨日のことのように記憶に鮮明です。
 次の3日から、いよいよ離着陸同乗が始まるのですが、これからは軍隊であることを思い知らされることになります。

予備学生のつぶやき(3)−2

 今回は、霞空・東京分遣隊にて九三式陸中連の訓練模様を描く予定でしたが、光人社の高城社長から、期限を切って原稿の手入れをと言うことで、今月いっぱいは忙しいのです。それで、下記の本を読んで感激し(13期は衝動院感激居士)、著者の工藤さんへ手紙を書きました。2年半ぐらい前です。恥ずかしいのですが、それを書きます。
 もし、お暇の折りがありましたら、この本は是非お読みいただくと良いと思います。


          工藤雪枝さんへの手紙                        
                                   
 突然お手紙をお送りする失礼の段お許しください。実はあなた様の著書「特攻へのレクイエム」を読みました。感動しました。それで、どうしても書きたくなった次第です。

 私が教官時代に所属していました元山航空隊は、予備学生の墓場と言われた隊で、私の同期からは多くの特攻隊が出ました。金剛隊、七生隊と名付けられた特攻隊は、すべて元山航空隊から出たものです。元山航空隊の13期出身者では、私一人だけが戦闘機隊になり、203空、戦闘303飛行隊に転勤して、最後の終戦まで闘うことになりました。
 同期の者たちを特攻隊に送り、また、その直掩機として沖縄戦を闘ったので、今回あなた様の本を読みながら、よくぞ書いてくれたというのが実感でした。
 さて、次は貴著「特攻へのレクイエム」を読んでの感想です。何よりもまず申し上げたいことは、若い女性であるあなたが、このような本を書いてくださったことに対して、心からお礼を申し上げるとともに、驚いています。有り難うございました。最後のページまで、感動の涙の連続でした。

                第1章 特攻作戦
「単なる合理的思考のみでは戦闘員の心情を推し量ることはできないのである。」おっしゃるとおりです。
 宇垣中将の特攻については、私は賛成できません。大西中将のように部下を道連れにすることなく自裁するべきではなかったでしょうか。詔勅のあとだけに、心情は分かりますが、中津留大尉以下10数名の部下を道づれにしたことは納得できません。割腹された大西中将は立派だと思います。
 「特攻の戦果を広義に考えると、日本人の祖国防衛に対する執念、大和魂を敵国アメリカに、そして後生の日本民族の誇りとして伝えるのだという断固とした意志の貫徹を、直接的戦果とは別の観点から、当時の特攻隊員たちは考えていたと思う」
 まことにその通りだと思います。

p28の「若者たちが祖国を救うため、自らの命をなげうったという事実が存在したことが歴史の真実として引き継がれていく限り、必ずや日本という国は立派な誇りを持った国として再生してくれるであろう」
 彼らがもし靖国神社で、あなたの文章を読んだら、きっとよくぞ書いてくれた、その通りだと言うでしょう。私には彼らの笑顔と涙が見えるようです。

            第2章 出撃まで
p30「特攻でなくとも、航空搭乗員に指定された日から、死は常に彼の頭を離れたことはなかった。しかし、それはあくまでも戦闘行為の一部としてであり、心臓を打ち抜かれても、愛機もろとも火だるまになっても、戦闘行為として充分闘っての結果であれば悔いはなかった。どんなに苦しくとも、生ある限り戦い抜けというのが、たたき込まれた搭乗員魂であった」
 まことにその通りでありました。従って特攻というのは、戦闘機乗りにとっては、邪道の作戦でした。不合理とも思えました。しかし、あえて彼らが特攻を志願するには、おっしゃるように「愛する肉親を守るために、そして愛する祖国を守るためにという思いで一種の悟りともいえる境地を開いていく」ということでした。
 13期の墓場といわれた元山航空隊で、私は昭和19年の9月頃から3回にわたって特攻の志願書を書きました。よく言われているような、「一歩前へ」というような方法ではありませんでした。飛行長から戦局に関する説明があり、特攻の説明があり、「よく考え自らの意志で封書に志願の旨を書き、今日から3日の間に、司令の机の上に置いておけ。なお、司令室は3日間は空室にしておく」というものでした。
 それからの3日間は、地獄の苦しみでした。本当に悩みました。しかし、志願書を書くに至ったのは、あなたが書かれた前述の文章の通りです。これは志願書を書いた者でなくては分からぬものと思っていましたが、当時の私たちの気持ちを、本当によく分かってもらえたと驚いています。
 このようなことを、3回経験しましたが、ついに私だけが戦闘機隊になり、あとの仲間は特攻隊になりました。
 現在、靖国神社の遊就館1階の広場に、彗星艦爆に実物があります。その室の壁面に、特攻隊と一式陸攻が、それぞれ爆弾と桜花を抱いて沖縄に向かう模型が飾ってあります。一番後ろの高度を高くとって直掩機が、続いていきます。事実は全くこの通りでした。沖縄戦で、この作戦に直掩機として参加した私は、ここに来ると、つい涙してしまうのです。
 当時私たち戦闘303飛行隊がいた鹿児島基地では、搭乗員の宿舎は民家に割り当てられていました。一日の戦いが終わり、夕暮れに畑のあぜ道を、同期の小久保中尉と二人で、宿舎への帰り道を歩いていたときでした。向こうから、鍬を担いだお婆さんと幼稚園ぐらいの可愛らしい、女の子が来ました。「今晩は、お疲れでしょう」と私たちの挨拶に、お婆さんが「本当にご苦労様です」といってくれ、女の子は可愛らしい笑顔で答えてくれました。
 暫く二人は沈黙していましたが、「おい!俺はあの二人のためなら命は惜しくないと思うよ」
と私が言ったら、小久保が「貴様もそう思ったか、俺も今、全く同じことを考えていたよ」と小久保がつぶやきました。これが当時の若者の偽らざる心境であったと、今も私は生々しく思っています。この緑美しき国土、か弱い老人や、可愛らしい子供たち、これらを象徴したものが日本であり、天皇陛下であったと、今も私は思っています。
 それから3日後に小久保は、グラマンとの空戦で戦死をしてしまいました。しかし、彼はきっと本望であったろうと私は思っています。

              第4章 生の証
 この章を読んで、本当に驚きました。失礼ですが飛行機の操縦は、なさらないと思いますが、どうしてこんなに操縦のことを良く知っているのかと、驚きの連続でした。空にとりつかれたせいでしょうか、私は昨年の秋までは、ウルトラライトや、セスナなどの操縦をしてきました。急降下時に飛行機が浮いてしまうことや、目標物に体当たりすると言うことが、いかに難しいことかは、操縦桿を持ったものでなくては、容易に分からぬものなのに、どうしてこんなに正確に描写できるものか、全く驚きました。ものを書くということは凄いことだと思いました。その勉強ぶりというか、探求心というか、心から脱帽です。あなたのこの本に対する熱意というか、執着というか、その真剣さが、はっきり感ぜられました。 

              第7章 慰霊
 私は、外務省に勤務してから、年に1回か2回、3週間ぐらいをめどに外国に出張し、在留邦人のために、教育のことについて講演してきました。これまでに世界の主要な都市は殆ど回りました。マニラにも、2回行きました。しかし、マバラカットにある慰霊碑のことは、今回、あなたの本で初めて知りました。胸を打たれる思いで読みました。良いことを書いてくださいました。もし知っていたら、何とか時間を工面して訪れたかったと、今は悔やんでいます。
   

              第8章 現代における特攻
 知覧の話、これも良く書いてくれました。私は海軍でしたが、沖縄で空中戦をやりすぎ、燃料不足で、鹿児島まで帰れずに、陸軍ですが知覧の飛行場に不時着して、燃料をもらったことがありました。一泊させてもらったので当時の様子は、記憶に残っています。それで30年ぐらい前に、鹿児島基地を訪れたときに、知覧まで足をのばし、「おとりおばさん」にも会いました。懐かしい思い出の場所ですが、今この地が記念の地として残されていることには、努力してくださった皆さんに頭の下がる思いでいっぱいです。

              第9章 国家と国民
 あなたの結論であり、叫びたい気持ちが良く理解できます。文章は書けないが、このような気持ちを持っている日本人が、多くいることを私は信じています。政治家は、どうかしています。靖国神社でなくては英霊は浮かばれないのです。小久保中尉もそうですが、私たちの同期を始め、ともに闘った者の合い言葉は「靖国神社で会おうな」だったのです。千鳥が淵などには誰もいません。毎年私たちの仲間は靖国神社には行きますが、千鳥が淵などに行くものは一人もいません。

              最後のつけ足し
 戦争のさなか、私たち学徒出陣の予備学生たちは、いろんなことを話し合いました。
  「もし、神様が俺たちに自由な時間として24時間をくれたら、何を貴様はするか」といった奴がいました。みんなそれぞれの望みを言い合いました。恋人に会いたい、母親に会いたい、いろいろありました。でも、最も多かったのは「書斎でコーヒを飲みながら、もういっぺんじっくりと本を読みたい」でした。
 九州鹿屋基地では特攻隊の隊員の宿舎は、小学校でした。その教室の黒板に、特攻隊員が出撃のときに、書いていった「川柳」が残っていました。13期予備学生の遺稿集「雲流るる果てに」に、これが記載されています。そのなかで、同期生の次の句を読むたびに、私はいつも目頭が熱くなります。
        ジャズ恋し、はやく平和が来ればよい。

 戦後、戦没学生の遺稿集として「聞け、わだつみの声」が出版されました。評判になりました。
 しかし、この遺稿集は、ある政治団体が、偏向した意図のもとに編集した遺稿集であり、私たちは大いに憤慨しました。そして、「ありのままを」の意図で遺稿を集めて出版したのが、「雲流るる果てに」であります。もし、お暇の折があれば、是非お目とおし頂ければと思います。
  入手できなければ、ご一報くだされば、私のものをお送り致します。
 14期予備学生の遺稿集「ああ同期の桜」「続ああ同期の桜」は、最近再版が出版されました。

 いま、私は書斎で、パソコンであなたに手紙を書いています。このような生活ができると言うことは、得難い幸福なのだ。と私は心から思っています。そしてこれらは、多くの同期や、当時の若者たちの、犠牲の上に成り立っているのだと思います。しかし、このことを、現在の若者や、日本の国民に伝えられないもどかしさを感じていましたが、この本を読んで、心から嬉しくなりました。本当に有り難うございました。靖国神社にいる当時の若者たちもきっと同じ心と思います。この気持ちを一人で胸にしまっておくよりも、文章は下手でも、あなたに、感謝の気持ちをお伝えしたく書いた次第です。
 また、同期の者や、当時の海軍関係者などもきっと喜ぶと思いますので、折を見ては皆さんに勧めたいと思っています。
 あなた様のHPも拝見しました。ご活躍の様子がよく分かりました。今後ともなにとぞお元気で、日本のためにご活躍くださいますよう祈っています。
            
              2001年10月11日

 工藤雪枝様
                                   土方敏夫
  

  「特攻へのレクイエム」 工藤雪枝
                  中央公論新社  ¥1750

予備学生のつぶやき(3)−3

 予備学生のつぶやき(3)、では霞ヶ浦航空隊・東京分遣隊(羽田飛行場)で九三式陸中練で、訓練を受けましたが、前回は初めて空を飛んだときのことを書きました。今回は単独飛行で初めて一人で空を飛んだときのことを書きます。

 毎日離着陸の訓練を受けているうちに、そろそろ単独飛行が許されるという頃になると、「誰が一番乗りか」ということが話題になってくる。羽田に来た連中は学生の頃、学生航空連盟で、飛行機に乗り単独で飛んでいた連中も結構いたので、ごく少数の初めて飛行に乗った私たちは気が気ではなかった。

 学生航空連盟の連中は、陸軍の飛行機であったから、スロットルレバーが引きレバーで、海軍は押しレバーであったから、最初馴れるまではとまどっていたようだった。
 
 幸い、私も単独飛行は、仲間のなかでは早いほうであったが、それでも単独が許されるまでは気が気ではなかった。
 
 私の航空記録によると、
 最初の慣熟飛行が12月 2日(木)、
    単独飛行が 1月10日(月)
 それまでの飛行回数が29回、飛行時間数が9時間20分と記録されている。

 始めての単独飛行では、離陸はそんなに問題ではない。凄く緊張はするが、とにかくまっすぐに機を定針して飛ばせばよいのだから、あっという間に離陸してしまう。本当はこのときが一番危険なのだが、それがわかるようになるのは、もっと先のことである。
 
 とにかく1人で飛んでいるという気持ちが何とも言えない。後ろからの叱正の言葉が今日はない。思わず大声で歌を歌っていた。後で聞くと、みんな大声で歌を歌っていたようだ。
 
 着陸も教えられたように、操作を順にやると、飛行機は素直に飛行場に向かっていく。問題は7メートルの高さの判断である。これさえきちんと出来れば、飛行機は素直に接地してくれる。教官や教員にもよるが、教え方の厳しい人もいた。福冨中尉もそうであった。ちょっと操作不良でまごまごしていると、後席から棍棒が降ってくる。
 こちらもその対策を考えて、飛行帽の中に、手拭いを忍ばせたりするのだが、それでも瘤だらけになることがしばしばであった。風呂の中でお互いの瘤を見せ合って、笑ったこともあった。単独飛行は、後ろから棍棒がとんでこないという安心感が何よりも嬉しかった。
 
 単独飛行終了の者が増えてくると、人によって履修している科目が異なってくる。何時までたっても単独飛行が出来ない者たちが焦り出すのは当然である。
 その頃になると、7メートルの判定が出来ずに、とんでもない高さでエンジンを絞り、機を引き起こしてしまうので、失速して墜落する者も出てくる。しかし、中練では飛行機は大破しても、大怪我をした者も、死んだ者もいなかった。
 
 なかには、単独飛行で飛び立ったのはよいが、どうしても着陸できずに、やり直しばかりするのが出てくる。そうなると、教官が予備機で飛び、編隊を組んで誘導し着陸させるのだが、見ていて巧いなあと感心したことが何回もあった。

 中練の後席に、教官と同じ重さのバラストを積み、翼には赤い旗を結びつけて、初めての単独飛行は、誰しも鮮明な記憶として残っているであろうと思う。

予備学生のつぶやき番外「公と私」

 予備学生のつぶやき 「公と私」

 桜の頃になると、靖国神社へ行きます。今年もお参りに1人で行きました。予備学生のご遺族の会「白鴎会」は、神社改修のため今年は定例の参拝が秋になりましたので1人で行ったのです。桜が綺麗でした。「菊水作戦」を思い出しました。お陰様で、日本も何とか立ち直りましたが、まだまだ、独立国としての形が不十分です。もう少し長い目で見ていてください。
こんな気持ちで同期の桜に語りかけてきました。

 戦後生き残り、私は数学の教師を40年、外務省で海外子女教育の仕事を18年やってきました。数学屋というのは、すぐに「公理系」を考えます。そんなことから、今の社会を考えてみると「公と私」という概念で多くの事柄が説明できるような気がします。
 私たちが若い頃は、もっぱら「公」が優先でした。現在はその反対ですべてに「私」が優先しています。どちらも行き過ぎです。
 新聞に出てくるいろいろな社会現象をこの二つの概念で眺めてみると、物事が非常にわかりやすくなるように思います。

 考え方のよりどころを、つまり数学でいう「公理系」をしっかりと、若い人たちには持っていただきたい。ただ、「持とうと思っただけ」では駄目で、それなりの努力、苦しみは必要です。

 老人の戯言かも知れませんが、考えてくださればありがたいと思います。

予備学生のつぶやき 霞空東京分遣隊2

前回に引き続き、霞空東京分遣隊で、「赤とんぼ」で訓練の頃の話です。


 東京出身者が多い東京分遣隊では、自分の家の上を飛んでみたいと思う者が少なくなかったが、これは絶対してならぬと禁じられていた。
 私たちの教官、福冨中尉が実施部隊に転勤され、私たちのペアは重久教員に指導を受けることになった。飛行作業にもすっかり馴れて、計器飛行の練習の頃である。
 重久教員が「土方学生の家はどこですか」という。「杉並です」と答えると、「では、今日は杉並に行ってみましょうか」という。
     
 本当に行くのかと思ったが、羽田から計器飛行で飛び立つと、すぐに明治神宮の森である。あっという間に、わが家の上空まできてしまった。低空飛行なのでわが家の様子がよく見える。近所の人たちが、日の丸の旗を振っているのもよく見えた。
 たまたま、その日は私の弟が府立13中を受験する日であった。重久教員が「ここで一丁やりますか」という。府立13中の上で、宙返りを3回やってひきあげたが、このことはいまだに弟と、当時の思い出話をする時には、出てくる話題である。
 それから後が恐かった。当時手紙は必ず検閲があったから、家の者から当日の様子などを書いた手紙が来たら大変と、毎日びくびくしていたが、これということもなく無事にすんだのは、まったく幸いであった。

 羽田では、写真機「セミ・ミノルタ」を愛用した。これは国産のカメラであったが使いやすく、便利でよく写り、仲間うちでも評判のカメラであった。
 学校の教員になって、始めてのボーナスをはたいて購入したものであるが、羽田では大いに活躍してくれた。終戦時まで、私と共に働いた思い出深いカメラである。

 離着陸とほぼ並行して、編隊訓練が進められていたが、これはなかなか難しかった。なにしろ飛行機にはブレーキがついてないから、全部エンジンのコントロールで操作するのである。しかも糸で結んだようにぴったり編隊を組むということになると、もうこれは至難の業である。常に先を見越しての操作が必要なのだが、これはまったく感と練習で養うよりほかにはない。はじめは「こんなことは出来るはずがない」と思ってしまうが、やってみると、訓練とは恐ろしいもので、次第に巧くなっていくのである。
 
 単独飛行と、編隊飛行とは最初からほぼ並行して訓練が行われたが、全員が単独飛行を終了して、特殊飛行に移ってからも、編隊飛行は最後まで続けられた。
 その理由は実施部隊に行ってから、納得するのであるが、当時は何故こんなに編隊飛行をするのか理解できなかった。
      
 特殊飛行に移る頃になると、どうしても単独飛行が出来ない者が出てくる。ある日のことである。深刻な顔をした同期生から相談を受けた。「どうしても単独飛行が出来そうもないから、搭乗員をあきらめよ」と今日教員から言われた。「俺は最後まで頑張りたいから、学生長の貴様から、分隊長にとりなして欲しい」というのである。
 早速分隊長に話しに言ったが「当人の生命に関することでもあり、飛行機を壊したりするのもみんなの飛行作業の妨げにもなる。気持ちはわかるが、情にほだされる問題ではないのだ」と逆に分隊長に諭される始末、両者の間に入って本当に辛い思いをした。
 彼等たち数人は、その後まもなく説得されて飛行要務士としての訓練を受けるべく、羽田を退隊していった。
 飛行作業も日が経つにつれて、次第になれてきた。そこは人間、余裕が出てきて思わぬ失敗もある。
 指揮所の傍らでは、望遠鏡の当番が着陸してくる飛行機の尾翼の番号を読み「○○号着陸します」という。すかさず搭乗割り係の学生が搭乗割りを見て「○○号、△△学生です」と報告する。
 ある日のことである。望遠鏡を見ていた学生が「おおツ 凄いぞ 長谷川一夫だ、後から李香蘭も降りてくるぞ」という。民間のダグラス機からである。物見高い予備学生のことである。俺も俺もと交代で望遠鏡にしがみつく奴が出てきた。
 この日は、さすがの分隊長も「貴様らは何時になったら娑婆気が抜けるのか」と大変怒り、全員修正と言うことになった。その時の分隊士は柔道三段という中井中尉だったから、全員顔が腫れ上がるくらいの修正を食らった。
 復員してから、長谷川一夫と李香蘭の出てくる映画を見た時は、このことを思い出し、思わず苦笑したものだった。

 羽田というところは、都会の故か非常にミスト(朝霧のようなもの)が発生しやすい。朝、張り切って飛行場に行くと、飛行場一面のミストである。銀座の方が全然見えない。従って飛行作業は中止ということになる。時間が経ってもなかなか晴れてこない。教官か教員が飛び上がって様子を見てくるが、到底無理だという。このようなことが何回もありそのたびに私たちはがっかりして、飛行場を引き上げるのだった。当時は飛行機に乗れないということは、本当に悔しかったのである。

 飛行科目もだんだんと進み、特殊飛行(スタント)になると、学生たちも二派に分かれてくる。非常に興味を示す者とそうでない者である。「垂直旋回」「宙返り」「失速反転」「錐もみ」などである。私などは嬉しくて仕方なかった記憶がある。特に「錐もみ」は楽しかった。特殊飛行も同乗から始まり、単独になると、それこそ衆人環視のなかでやるのであるから、日頃の腕の見せどころである。張り切って飛んだことを憶えている。
 なかには何時までたっても、宙返りが円にならず、L字形になってしまうのもいる。次第に個性が出てくるのもこの頃からである。
私たちは、スタントの頃になるとよく模型飛行機を使って、お互いに研究し合った。
 ここまでは全速で、ここからエンジンを絞るとか、このような姿勢のときは、よく滑るとか。操縦についていろいろ話し合った。

 九三式陸上中間練習機というのは非常によくできた練習機である。スポーツとして飛ぶなら、こんなよい飛行機はないと、今でも思っている。懐かしい飛行機である。スタントは何でも出来るし、特に二枚翼で羽布張りの機体は手作りの感じであるし、上半身が空中にさらされているのも、飛んでいるという実感が迫ってくる。最初に飛んだということもあるが、これは誰でもそう思っているのではないだろうか。懐かしい良い飛行機である。
 当日の風向きにもよるが、北西風のときはパスに乗って降りてくると、着陸寸前に穴守稲荷の鳥居すれすれになる。戦後この鳥居を移動すると祟りが起こり、ずっと昔の位置にあったようだが、最近取り払われたということである。
 
 飛行機というものは空を飛んでいる時には、まことに自由自在なものであるが、地上ではこんなに世話の焼けるものはない。
 特に着陸のときは、接地してから行き足の止まるまでが大変である。ちょっと油断をすると、くるくると回って足を折ってしまうのである。
 私たちは、これを「廻される」といっていた。いったん廻されてしまうと、殆どの場合は足が折れて、大修理ということになる。
 従って着陸では定針し、如何に廻されないようにするかということは大問題であった。足を折るような事故が続発すると「貴様らはたるんでいる」ということで、飛行場を駆け足で一周させられた。これがまた大変であった。飛行服を着たままで、飛行場を一周するのは、まさに地獄の苦しみであった。
 また、着陸して帰ってくる飛行機も、地上滑走はままならぬから、休んでいる学生が翼端について、地上滑走の手助けをするのであるが、これもまた大変な作業であった。

 しかし、他の航空隊に比べると、羽田は天国であったかもしれない。隊内の宿舎から飛行場までの間は、民間の道路である。道路の脇の電柱の影とか、建物の横などに父母や恋人が立っているなどということは、日常のことであった。そのうちにあれは誰のお母さんであるとか、誰の恋人であるとか、みんなわかってしまい、目で挨拶をしながら通り過ぎるようになった。
 このように、飛行作業に行くのは大変楽しいことであったが、その飛行作業も要領を覚えるまではたいへんであった。何しろ空を飛ぶなどということは、これまでの生活とはぜんぜん異なる経験であったから、慣れるまでは容易なことではなかった。毎日のように教官の棍棒が頭の上に降ってきた。

一番のポイントは、当て舵である。これは船の舵取りもそうであるが、右に廻るときは右に操縦桿を倒し、機体が右に廻りだしたら、ちょうどよい場所の少し手前で逆方向に操縦桿を倒す操作である。そうすると機首は思った方向に定針する。この要領を如何に早く習得できるかということである。
 もう一つは、手と足のバランス、つまり操縦桿と方向舵のバランスであり、これがうまくいかないと飛行機が滑ってしまう。いかなる場合にも、旋回計の玉を真ん中に固定させるように操縦することで、これに馴れるまでの早さが勝負であった。
 実際の空中戦では、このような操縦法では、すぐに撃墜されてしまうが、これはもっと後になってからの話である。
 さらに大事なのは、見張りである。見張りといっても、ただ見るだけではなく、見て次の場面の予想が出来ることである。これを理屈でなく、身体でしっかりと憶えることがポイントであった。
 こうなると、やはり適性ということが大事で、努力だけでは解決できないこともあった。素直に操縦法を体得していくものと、一生懸命にやっても、なかなか効果が現れない者があったことは事実である。
 教官・教員のなかには、厳しい人も、優しい人もいた。私も飛行作業ではずいぶん殴られたが、決して恨みに思ったことはない。「今日やったお前の操作は下手をすれば命取りになりかねない。だから忘れないようにぶん殴ってやる、しっかり憶えておけ!」といって殴られるのは、有り難いと思った。恨みに思ったことはない。
 ただ日常の生活で、「貴様は生意気だ」とか、「態度が良くない」などと、よくわからないことで殴られたことは、本当に「こん畜生!」と思った。
 それで自分が教官になってからは、飛行作業では殴るが、日常の生活では絶対に殴らないことにしたが、これは良かったと思っている。後になって、特乙三期の予科練から「仏の分隊士」といわれたのもこの経験があったからであると思っている。


予備学生のつぶやき(4)大村航空隊元山分遣隊1

第4章 大村海軍航空隊・元山分遣隊(大分基地)

 二枚羽根の赤とんぼ、九三式陸上中間練習機教程も無事終了し、いよいよ戦闘機教程に入ります。
 
1)元山分遣隊に着任
 昭和18年3月末、私たちは元山分遣隊に着任した。
 海軍は当時予備学生に月額15円を支給してくれたと記憶しているが、このときには確か転勤旅費と日当を別にくれたと思う。当時汽車は、1等・2等・3等の区別があり、予備学生は、士官待遇で2等の旅費を支給され、海軍は私たちを士官として待遇してくれているということで大へん喜んだ覚えがある。
 団体行動でなく、各自が指定された日までに、大分航空隊に着任するという方法であったように思う。
 海軍士官の体面を汚すな。旅館はその土地の一級旅館に泊まれ、汽車は2等を使用せよ、という待遇で、まだ任官もしていないのに、有り難いことであった。

 ここで紛らわしいので、元山分遣隊について解説しておこう。元山海軍航空隊は、北朝鮮、日本海側の元山という地名の場所にあり、もともとは大型機の基地であったが、私たちのときから、戦闘機の練習航空隊となった。
 このときは、まだ元山航空隊が整備されていなかったので、大村航空隊の元山分遣隊ということであった。それなのに、基地は大村航空隊ではなく、大分海軍航空隊という甚だ変則的な扱いで、大分航空隊を基地とする大村海軍航空隊・元山分遣隊は、寄生虫もしくは居候のような存在であった。

 各練習航空隊から、練習機教程を終了した者たちが集まったが、霞空・東京分遣隊のほか、谷田部、筑波の練習航空隊からの13期もいた。
 私たちは規定の日までに着任し、第2分隊所属ということになった。当時の名簿が残っているが、それによると、第2分隊は総勢74名である。記録によると、「元山分遣隊の予備学生は、前期学生146名が、着任した」ということになっているが、私たち74名の他の者についての記憶がない。もしかしたら、第一分隊というのがあって、72名の者たちが所属していたのかも分からないが、私の記憶には全然無い。
 早速居住区が定められたが、柔道場が居住区となった。「やはり居候は居候だな」とぼやく者もいた。

 入隊した頃は、ちょうど桜が満開の頃で、隊内ではお花見が出来ると喜んだ。分遣隊の悲しさ、飛行服も整わず、飛行機も揃わず、これからのために英気を養う。といって休日を過ごした覚えがある。
 第2分隊の分隊長は山河大尉、分隊士は相沢飛曹長・相楽飛曹長、共に兵から昇進した方たちである。早速、「さすが分遣隊、分隊長も分隊士もスぺさんとはな」という奴が出てくる。分隊長山河大尉については、後に詳述するが、支那事変以来の歴戦の勇士であり立派な方であった。分隊士相沢飛曹長も、相楽飛曹長も共に実戦の経験者で、申し分のない方たちであった。
 海軍では、兵から昇進した士官を特務士官といっていた。特務からの呼称で、スペシアル、つまり「スペさん」という呼称が使われ、今でいえば蔑視の呼称である。
 私は、これにはいささか憤慨した。「スペさん」であろうと、「兵学校出」であろうと、人格識見豊かな人なら、結構ではないか。まだ、どんな人かも分からぬうちから、自分たちの分隊長・分隊士を「スペさん」呼ばわりをするのは、おこがましいものである。と思ったが、あけすけに反対することも出来ず、何か割り切れないものを感じていた。
 予備学生とはそんなに偉いのか、大学・高専出身というだけではないか。修行中ならばもっと謙虚であるべきではないか。というのが偽らざる気持ちであった。このときの気持ちや、感情は、終始一貫して心の中にあったことである。そして予備学生制度に対する疑問でもあった。
 ただ、残念ながらその恩恵のもとで海軍生活を送ったのも確かなことであったし、おかげを被ったのも事実である。

 大分航空隊は、大分の駅から歩いて30分ぐらいだったろうか。駅から別府行きの電車道に沿って、街の中を歩いていくと、右側に赤煉瓦の銀行がある。その角を右に曲がり、静かな住宅街をしばらく歩くと、舞鶴橋という木造の橋があり、その橋を渡り左に折れ、堤防に沿ってだらだら坂を下ったところに隊門があった。飛行場は、海岸べりの風光明媚な場所であった。
 戦後十数年たって、懐かしさのあまり、大分航空隊の跡を訪ねたことがあった。航空隊の跡は、団地に変貌しており、隊門の支柱が道路脇に転がっていたのを淋しく眺めた記憶がある。海岸べりの格納庫は残っていて、格納庫前のエプロンのコンクリートがひび割れ、その割れ目の中から雑草が生えていた。その草を抜きながら、強者どもの夢の跡を偲び、当時を回想したことを思い出す。高崎山と湯布院が美しかった。その時に撮った写真を紛失してしまい、今思うと残念である。

 分遣隊は居候の悲しさで、私たちの宿舎は、柔道場にキャンバスベッドの仮住まいであった。不平を言うのは、予備学生の特徴みたいなもので、大分航空隊に赴任した同じ前期の13期予備学生を横目に見ながら、こぼしている者もいた。
 しかし、外出時には、別府へ行けるし、土曜日の夕食時には、コップ一杯の日本酒もつき、さすが実用機教程は違うな、と喜んでいる者もいた。私は、酒が全然飲めないので、土曜日の夕食時には、「貴様の隣に座ろう」と大もてであった。
 また、小なりといえども、独立した分遣隊であるから、大分航空隊の日課に縛られず、分遣隊独特の日課で、過ごしたことも都合のよいことが多かった。

2)飛行作業
 
 九六戦
 到着してから、数日はいろいろな準備や、座学で過ごしていたが、待望の飛行作業が始まったのは、4月5日(水)からである。大分航空隊の飛行学生や、予備学生はすでに零戦で訓練を始めていた。
 私たちの乗機は、松島航空隊の甲飛予科練が使用していた九六戦を教員たちが、毎日のように空輸してきたものである。
 相当な使い古しである。塗装もあちらこちら剥げているものがほとんどで、これで大丈夫かと思われるようなものが殆どであった。
 脚は引き込み脚でないし、風防は開いたままで閉じない。零戦と比べるといささか見劣りがするのはやむを得ない。という代物であった。
 それで、また不平屋が「同じ同期でありながら、大分空の13期予備学生には差をつけられた」とこぼしだした。
 
 離着陸
 私たちが最初に乗ったのは、九六戦を2座に作り直した練習用の九六戦で、二式練習戦闘機という。いざ実際に乗ってみると、最初は非常に難しい飛行機である。エンジンが大きくて、カウリングが邪魔をし、前方がよく見えない。離陸の場合には、目標に定針して進むことが難しい。方向舵を右に左に動かすことが最初はなかなか出来ない。
 また、脚と脚の間が狭いので、着陸が非常に難しい。接地してゆき足が止まる頃になると、くるりと回されてしまい、廻されたら最後、必ず足が折れてしまう。
 中練と比べると、スピードが速いので、第4旋回からのパスも難しい。その上、第4旋回が山の上で、高度の判定が難しい。とにかくこれは大変というのが、第一印象であった。それでも、最初は教員が同乗であるから、ぶん殴られながらも、何とかこなしていたが、中練のときの自信を無くした者もいたようである。
 飛行機の操縦は、精神的に強くないとうまくいかぬものである。自信をなくすということは、致命傷になることもある。乗りたくてたまらぬ奴もいれば、あまり積極的でないものも出てくる。
 ときは、まさに春たけなわ、緑の飛行場での飛行作業は楽しいものであったが、緊張感は、中練の頃と比べると格段の相違で、戦闘機らしい訓練の日々が続いた。実用機教程の元山空では、待望の白いマフラーを着用することも許された。
 飛行服の左腕には、予備学生のマークとして、黄色の腕章をつけるようになった。この腕章にも不平をいう者が居た。「士官の袖章があるのに、何故我々はこんな黄色の腕章をつけるのか」と。
 飛行機乗りは、腕の世界である。格好だけ士官でも、腕が伴わなければいたしかたがないのであるが、こんなところにも、予備学生の欠点があった。
 飛行服も戦闘機は軽い服装でなくては空戦が出来ないからといって、中練のときのような、毛皮のついた冬服ではなく、夏服である。
 とにかく中練のときと同じように、離着陸単独が出来るようになることが当初の目標であり、みんな眼の色を変えていた。単独飛行が始まって、10日ぐらいたったころ、同期の学生が、着陸に失敗し飛行場の手前に墜落した。一命はとりとめたものの、大怪我で入院した。「実施部隊の訓練は容易なものではない」という中練のときの須賀分隊長の言葉が、身にしみてわかった。

 大分の飛行場は、別府湾に臨み、風光明媚な美しいところであった。ときどき大阪から別府行きの豪華客船が航行していた。あれで新婚旅行がしてみたいとぼやく者もいた。飛行場の対岸は別府である。その途中に高崎山がある。この高崎山に雲がかかると、翌日の天気は悪くなるという。厳しい訓練が続くと「どうか、高崎山に雲がかかりますように」と祈っている奴もいた。この高崎山が猿で有名になるのは、戦後の話である。
 飛行場から海を隔てて、別府の街が見える。その背後に逆扇形の緑に覆われた湯布院が美しい。まさに風光明媚な大分航空隊であった。九六戦に乗り始めた頃、大分空で訓練中の飛行学生(海兵70期)たちが、朝の体操時に、気合いを入れにやってきた。「貴様ら予備学生はたるんでいる」といって総員が殴られた。これが始まりで、何かにつけて兵学校の連中が、私たち予備学生にたいして「気合を入れる」といっては、嫌がらせをしに来た。ベッドの毛布の畳み方が悪いといって、毛布を床に放り投げて帰ったこともあった。しかし、それも2,3回で、隊長の一喝で以後姿を見せなくなった。
 小なりといえども、元山分遣隊は、独立した隊である。大分航空隊とはすべて異なる日課で過ごしていたのは、私たちにとっては有り難いことであったし、元山空独自の雰囲気というものが次第に作られていったように思う。

 九六戦への愛着
 時折隊内で、大分航空隊に転勤した同期と会うことがあった。「貴様らは良いな、ゼロ戦で訓練とは羨ましいことだ」と私たちは言っていたが、それも日が経つにつれて九六戦の良さが解ってくると、言わなくなるようになった。
 それこそ、ひとたび大空に上がれば、自由自在に飛び回ることが出来る飛行機が九六戦であった。馴れるに従って九六戦の良さが解ってきたから、そして九六戦に対する愛着のようなものが生まれてきたからであった。
 スタントは、自由自在に出来たし、科目が進むに従って、ますます九六戦の良さが解ってきたというのが、実情であった。
 戦後は零戦神話に隠れて、九六戦はその影が薄くなってしまったが、いまでも、私は九六戦に対する愛着のようなものを感じている。特に翼の形が綺麗だった。楕円翼という美しい曲線の翼型は何とも言えない。運動性能も良く愛着の湧く美しい飛行機であった。
 イギリスの名戦闘機、スピットファイアーも楕円翼で、液冷なるが故に実にスマートに作られた戦闘機である。メッサーシュミットには、美しさがないように思う。操縦してみなくては戦闘機としての優劣はわからないが、これは形だけの話である。

 
予備学生のつぶやき・冬のソナタ

土方です。  

どうも予備学生は娑婆気が多く、ちょっと「零戦搭乗員」という名前には恥ずかしいところもあるのですが、まあ正直に思った通りを書きます。「つぶやき」なる所以です。 

昨年から「冬のソナタ」に嵌っています。全部ビデオに収録して、時々見ては涙を流していると、女房からは蔑みの眼で見られています。雪の中で、ミニオンがユジンに「ここならば、誰も見ていません、思う存分泣きなさい」と言って離れ、ユジンが、1人降る雪の中でさめざめと泣く場面があります。
 良いですね。素晴らしい場面です。 

S303で沖縄戦の頃、山河隊長を始め、親しかった上飛曹クラス・同期生がばたばた戦死しました。 降るような星空のもと、誰もいない飛行場の片隅で空を見上げ、大粒の涙をこぼしながら1人、心ゆくまで泣いたことがありました。 
 冬のソナタには、そんな心憎いような場面が、所々にあります。誰も見ていないところで自分1人、心ゆくまで泣いた思いを甦らせてくれる場面です。 

映像が美しい、音楽もきれい、台詞の中にハッとするような言葉を発見「かつての日本人」はそうであった。何故、何故こんなに無造作に私たちは、美しかった情緒を簡単に捨ててしまったのかしら。 と思いながら見直しています。

1年ぐらい前に、韓国の駐在武官であったT一佐に薦められてみたのが、病みつきのはじめでした。T一佐は現在ある基地の司令で頑張っています。 

戦闘機搭乗員とて生きた人間、誰も見ていないところで、1人大声を上げて泣きたい気持ちになることもありますし、泣いたこともあります。 
もし、機会があるならば、一遍ご覧になっては如何でしょう。

予備学生のつぶやき・円形の虹

 予備学生の土方です。例によってとりとめのないつぶやきです。

 皆さんは、虹は半円形のものと思っていらっしゃる方が、殆どではないでしょうか。あるいは、旅客機に搭乗され、窓から丸い虹をご覧になった方もおられると思います。
 私が丸い虹を見たのは、沖縄戦で鹿児島基地を飛び立ち、屋久島の上を過ぎ、そろそろ奄美大島が左手に見える頃でした。下の方は、真っ白な雲の絨毯で、所々に雲の峰が立ち美しい光景に見とれているときでした。飛んでいる下方に、円形の虹が見えました。

 へー、虹は上から見ると丸いものなのだ、ということをその時に始めて知りました。自分の眼が、円錐の頂点にあって、そこから底面を見ている具合ですから、虹が丸く見えるのが本来の姿なのですね。地上にいる私たちは、円錐形の底面の半分を、地平線もしくは、水平線によって区切られますから、半円の虹しか見られないわけです。
 この丸い虹を見たときは、ヒコーキ乗りになって本当に良かったと思いました。これから行く先は地獄の3丁目とは知りつつも、円形の虹は実にきれいに見えました。

 陸軍の方達のように、血だらけの姿態を目の当たりに見ることはなく、青空と雲と海の中で、火を噴いた飛行機は狂女が髪を振り乱して踊りまわるような姿で落ちていきます。海の上には、撃墜されたヒコーキから漏れたガソリンが作る大きな縁の輪が広がって、海の紋章を描いています。

 戦闘機の搭乗員が、思い出す空中戦には、あまり血生臭いものがないのです。いつかはああなるとは思っても、そんなに悲惨という感じはないのです。
 これから熾烈な戦いがはじまると思っても、丸い虹はすごく綺麗に見えました。戦闘機乗りになって本当に良かったと思いました。

予備学生のつぶやき・福富分隊士のこと

土方です。

 福富分隊士のこと
 「福富 正喜(予学8期)、19.8.5 戦死 、比島方面 、105空」
 以上は、「海軍飛行予備学生(1期〜13期)名簿からの資料である。

 福富分隊士についての思い出は深い。昭和18年12月2日、霞空・東京分遣隊(羽田飛行場)で生まれて始めて、飛行機に乗った。飛行機は九三式陸上中間練習機、いわゆる2枚羽根の赤とんぼである。その時の教官が福富分隊士であった。
 私は幸い、予学先輩・福富分隊士のペアーで、以後ずっと九三式陸中練で、訓練を受けた。その影響は非常に大きく、後に元山空で戦闘機の教官になり、特乙3期の練習生を教えた時は、福富分隊士流の教え方を踏襲した。このことは、「零戦空戦記」にも、詳しく書いた。非常にハンサムで映画俳優のようなかたであった。
 私たちが、まだ、赤とんぼに乗っている最中に、福富分隊士は実施部隊に転勤になり、羽田を退隊された。
 その後、私たちは赤とんぼの教程を卒業し、大村航空隊・元山分遣隊(大分基地)に転勤し戦闘機の教程に進んだ。
 
 昭和19年5月頃のことである。福富分隊士が出撃前に、別府の旅館に滞在しているとのことで、日曜日に東京分遣隊出身の者たちが分隊士の滞在している旅館を訪ねた。懐かしかった。写真も撮らせていただいた。これが福富分隊士との最後の別れとなった。このことは「零戦空戦記」に書いた。

 2004年10月8日(金)夕刻、電話がかかってきた。北九州在住の同期生、丸太鉄夫君からである。「零戦空戦記」を読んで、丸田君が福富分隊士のことについて、わざわざ知らせてくれたのである。
 彼は福富分隊士が大分航空隊にいる時、士官室でウイスキーを一緒にのみ、その飲み方を教えてもらったとのこと。
 また、フィリピン・ダバオから福富分隊士が彗星艦爆で、ゲリラを掃討にいった時に、分隊士の艦爆が被弾をし、墜落したとのことで、丸田君が現地で分隊士の艦爆が落ちたところに行って遺体を収容した。その時、水冷のエンジンは地中に刺さるような形で、翼は折れて付近に残っており、座席の中に、機銃の薬夾が沢山散乱していたとのことであった。薬夾が散乱していたということは、7ミリ7を射撃していたということで、地上のゲリラめがけて、銃撃していたということであろう。始めて福富分隊士の戦死の詳報がわかった。
 また、彼は13期の植村君が特攻に出撃する時にも、同じ基地にいて、前の晩彼と話したり、当日は帽振れで見送ったとのことであった。
 
 今回「空戦記」を書いたおかげで、福富分隊士の最後の様子を知ることが出来た。心から分隊士のご冥福を祈る次第である。

予備学生のつぶやき「海に出て・・・」

 13期予備学生 土方です。

 小春日和が続きました。いま、夜の12時半です。天気予報が当たり、窓辺に木枯らしの吹く音が聞こえます。木枯らしの音を聞くと 山口 誓子の句

 「海に出て 木枯 帰るところなし」

を思い出します。特攻機を読んだものとのことですが、胸に迫るものがあります。沖縄まで、特攻機の直掩、丸大の直掩、屋久島の手前あたりで空中集合しますが、あとはバリカン運動をしながら涙の連続でした。
 木枯らしの吹く頃になると、この句を思い、沖縄戦を思い出します。

 11月11日から17日まで、沖縄に行って来ました。白鴎会の方々の計らいで「平和の礎」に刻銘の漏れていた、戦闘303の同期生「小久保節弥」を始め、他の3人の同期生の追加刻銘を確認するためでした。この目で確かめてきました。

 「某大手商社のネービー会」の神立さんの記事読みました。木名瀬君や水木君の顔を思い出しました。くしゃみも出ました。原因がわかりました。

 窓辺の木枯らしを聞きながら。

予備学生のつぶやき「もし神様が一日の暇を・・・」

13期予備学生 土方です。
 
 戦闘303飛行隊が、鹿児島基地で沖縄戦に出撃したり、邀撃戦に明け暮れていた頃です。当時私たちの宿舎は、鹿児島市内の涙橋近くの民家に分宿していました。私たち予備学生は1軒の家にまとまって分宿していました。夜になるとブリッジをしたり、お酒を飲んで、たわいもない話に興じたりしていました。
 
 明日知れぬ命と知りつつも、それを顔に出すことはなく、明るく振る舞うことによって、自分自身を抑制していたのかも知れません。これまでに、習った戦術にしても戦略にしても勝つという結論は出てきません。
 それで議論にはならぬことはしませんでした。国家の捨て石になればそれで本望、あるいは講和の条件が少しでも良くなるのなら、喜んで死のう。そんな気持ちだったと思います。

 ある晩のことです。誰かが「おい、神様がもしも24時間フリーな時間をくれたら、貴様達は何をしたいか」といいました。いろいろな意見が出ました。
 恋人に会いたい。
 母親に会いたい。
 甘いものを腹一杯喰いたい。
などなど、大変でした。その中で一番の多数派は
 「書斎で、コーヒーを飲みながら、ゆっくり本が読みたい」でした。

 私が、今の生活をこよなく幸福だと思う理由です。1人書斎で本を読んでいる時、ふとこんなことを思い出すのです。

予備学生のつぶやき「海峡を渡るヴァイオリン」

13期予備学生 土方です。

 皆さんはお忙しいのでご覧にならなかった方が多かったのではないかと思いますが、昨日、11月29日午後8時から、フジTVで「海峡を渡るヴァイオリン」という劇が放映されました。これを見た感想です。

 ヴァイオリンについては拙著「零戦空戦記」P200〜P202「小林軍医中尉とヴァイオリン」に書きましたのでお読みいただいた方は、ご理解いただけると思いますが、このことがあったので、私は戦後ヴァイオリンを求め、習いました。しかし、楽器の女王はあまりにも難しく、学生オーケストラの第2ヴァイオリンぐらいまでで、残念ながら途中で挫折いたしました。結局、バロック時代のヴァイオリン曲収集ということになりました。

 主人公「陳昌鉉」が、小学校のころ、零戦は美しいと思い、憧れ、また、小学校の先生に弾いて貰ったヴァイオリンの音色の美しさに惹かれて、紆余曲折の末、遂に世界的なヴァイオリン職人になっていく物語ですが、心に残る話でした。
 幼い男の子が、零戦の美しさに惹かれ、そしてヴァイオリンの音色に惹かれていくというところで、驚いた次第です。画像も音楽も綺麗な作品でした。マザコンの私には、母親を思う主役の昌鉉の気持ちが良くわかりましたし、田中祐子扮する母親が良かったですね。
 最近、日本のテレビの物語は、どぎついもの、ことさら見にくいものをえぐり出すようなものが多いようです。

 大空に舞う零戦は、美しいの一言で事足ります。美しいものは優れたものです。そんなことを思いながら、このドラマを見ていました。

予備学生のつぶやき「フライト・ジャケット」

13期予備学生 土方です。
 
 皆さんはヒコーキ特に零戦がお好きなようですが、私もかつては零戦搭乗員の端くれでしたから、零戦は大好きです。世界の戦闘機の中で零戦の次に好きな戦闘機は?と聞かれたら、ちょっと困ってしまします。実際に操縦したことがないのですから、何とも言えないのです。
 でも、格好だけでも良いじゃないか、と云われれば、アメリカでは P51,グラマンF6F、イギリスでは スピットファイアー、ドイツでは メッサーシュミット109

 と極めて平凡な答えになりそうです。でも、上記のうちで一番好きなのは、ということになると、スピットファイアーですね。楕円翼が何とも言えないほど美しいのです。
 九六戦も楕円翼でした。これは乗ったので、今でも好きな戦闘機です。

 これからが本番です。皆さんはヒコーキ、中でも戦闘機の出てくる映画についてはずいぶんと詳しい方がおられると思います。これまでご覧になった戦闘機の映画の中で、一番好きなものは何かと、問われたら如何でしょう。
 私は、躊躇なく次の映画を挙げたいと思います。

 「フライトジャケット、愛と栄光の翼 1巻〜3巻」1988年、英国
  監督  ;イアン・トイントン
  キャスト;ボイド・ゲインズ
       トム・バーリンソン
       ティム・ウッドワード
       デビッド・ホロビッチ
 
 1990年頃、私は外務省に通っていました。銀座が近いので、昼飯時や、帰りには銀座へよく行きました。ある日のことです。ビデオテープで上記の映画「フライトジャケット」が発売されていました。スピットファイアーだ! と思わず買おうと思いましたが、3万円はちょっと高いな、と思って止めました。でも、印象に残ったビデオテープでした。
 いつの間にか、その店からもこのビデオはなくなってしまいました。

 1997年11月のことです。新宿の「ツタヤ」で、ビデオを借りに行ったおりに、なんとこの「フライト・ジャケット」があるではありませんか。懐かしいと思い借りてきました。
 家で見たら、びっくり仰天、こんな素晴らしいヒコーキ映画は、これまで見たことがありませんでした。それこそ喰い入るように見ました。
 最近、なんの気なしにまた見ましたが、やはり素晴らしいの一言につきます。

 零戦の出る映画では、「零戦燃ゆ」、「連合艦隊」など良い映画もありますが、ヒコーキ映画としては、これの右に出る映画はないように思います。
 スピットファイアーの飛び方が良くわかる。特に離着陸。
 戦闘機乗りの気質を描いて最高。
 イギリス空軍の雰囲気が良くわかる。海軍兵学校は、なるほどイギリスの模造品。
 アメリカ人パイロットの気風もわかる。
 つまり、ヒコーキ隊の人間像が、凄くよく描かれている。特に「モギー」というパイロットは、役者も最高で戦闘機乗りの典型的な人間像です。1人1人が生きています。
 ヒコーキ映画を語るなら、これを見ないで語るわけにはいかない。そんな映画です。この映画の凄いところは、切ったはったもありますが、人間を実によく描いているところです。
「イギリス人とフランス人の違い」も良くわかります。「ピンクのマフラーもどき」もあります。

 念のために、昨日は紀伊国屋へ行って調べましたら、現在は廃盤扱いで発売されておりません。いま、YAHOOで検索しましたら、やはり在庫切れでした。
 私は新宿の「ツタヤ」で借りてみました。今でもあるのではないでしょうか。


 

前頁に戻る