第二章 海軍飛行機の開発と各種戦闘機
※背景は、中国大陸を飛ぶ十二空の零戦隊


第六節 搭載兵器

1 七・七ミリ機銃

 センピル飛行団が講習に使ったスパローホーク戦闘機には、ビッカースの七・七ミリ機銃と、CC同調装置がついていた。大正十三年にこれらの製造権を買い、技術者を英国に派遣して技術を習得させ、呉海軍工廠で機銃の製造を始め、機銃の自給が可能となった。
 昭和五年、横須賀海軍工廠に機銃工場が完成し、ビ式機銃の生産は同工場に移されて、艦政本部の管轄下で製造された。しかし大艦巨砲主義全盛の時代であったため、航空機用機銃の生産は軽視され、昭和十一年までビ式機銃の輸入は続けられた。
 戦闘機用機銃は、一○戦から九六戦に至るまで、一貫してビ式七・七ミリ機銃二丁を装備した。昭和九年頃、大村空の士官搭乗員の間で、大口径機銃少数と、小口径機銃多数の優劣が討議されたが、戦闘機隊全体の問題にはならなかった。また航空廠で七・七ミリ四丁(九五戦)、二○ミリモーターカノン(九六戦)の実験はしたが、何れも不具合であった。七・七ミリは発射速度が大きいので捨て切れず、雷電、紫電の初期まで使われている。
 同調装置とは、七・七ミリ機銃は胴体に装備され、その射弾はプロペラ回転面を通過するので、プロペラ翼貫通の事故を防ぐためのものである。当初は発動機回転カムの作動を油圧で伝達する方式であったが、プロペラ翼貫通の事故があるので、ピアノ線を使う九五式に換えた。この方式は作動良好で、九五線以後使用された。同調装置はさらに九九式へと進歩した。
 昭和十一年頃、九○線で全弾装備(各銃六百発)して、急旋回中の射撃実験を行い、Gの負荷による給弾不良等の対策を解明して、機銃の事故絶無を期した。性能は次第に改善され、支那事変頃は発射速度毎分一、○○○発、初速毎秒七五○メートルであった。
 弾丸は普通弾、曳痕弾、焼夷弾、徹甲弾の四種を使用した。
 世界各国の戦闘機機銃は、わが国と同様に、支那事変の前頃までの間、七・七ミリ機銃二丁を装備するのが主流であった。その後各国は、火力の増強に力を入れ始めた。英国は七・七ミリを堅持し、その数を二丁から四、六と増加し、最後は八丁を装備した。米国は七・七ミリから一二・七ミリに移り、最初は二丁から次第に増やして八丁となった。
 わが海軍は零戦の開発にあたり、世界に類を見ない、二○ミリを採用し、七・七ミリ二丁、二○ミリ二丁の画期的な強力装備に踏み切った。

2 二○ミリ機銃

 昭和十年頃、航空本部では、戦闘機に搭載する航空機銃につき、熱心に討議された。たまたま、スイスのエリコン社の二○ミリ機銃の情報が入ったので、極秘にこれを手に入れて実験した結果、航空機銃として優秀であることを認め、これを使用することを決定した。
 最も魅力であったのは、炸裂弾が使えることであった。従来の七・七ミリ機銃では、穴が開くだけ、あるいは焼夷薬で点火するだけであったが、炸裂弾ならば破壊力が比較にならぬ程大きく、一発の命中により敵を撃墜できると考えられた。
 当時は航空機銃は艦政本部の管轄下であったが、同本部が輸入に賛成せず、実現はほとんど不可能であった。航空に関心の薄い艦本では話にならぬと、二○ミリ機銃のみは、航本が管理するよう大臣決裁を取ったのは、航本部長山本五十六中将であった。そしてこれを生産するため、専門の機銃製造会社を作るべきである、との中将の意向を受けた技術部長、原五郎少将が、奔走の結果浦賀船渠社長、寺島健(元)海軍中将に、大日本兵器株式会社を設立させたのが昭和十一年である。同社はエリコン社から製造権を買い、技師を招いてその指導のもとに、生産を開始したのは、翌年三月であった。
 しかし、初期に生産されたFF型(一号銃と呼ばれた)は初速が低く、命中率の悪い欠点があった。また、弾倉式であるため、六○発しか携行できない欠点もあった。
 この欠点を改良するのと、性能向上のため次々と改造が行われた。(年月は完成時期)
 十五年十一月 銃身を長くして、初速を毎秒六○○メートルから毎秒七五○メートルに上げた。この型を二号銃と呼んだ。
 十六年十一月 弾倉容量を一○○発とした。
 十八年五月  弾倉をベルト給弾式にして、三○○発まで携行可能として、二号銃四型と呼んだ。ベルト給弾はエリコン社でも開発できなかったものである。
 十九年八月  従来の発射速度、毎分五二○発を、毎分六二○発にした。
 二十年五月  発射速度をさらに毎分七六○発に向上し、これを五型と呼んだ。
 二〇ミリ二号銃の弾丸は、曳痕通常弾、通常弾、焼夷通常弾、徹甲弾、着色弾(以 上炸薬内蔵)、演習弾、曳痕弾等があった。
 炸裂弾は敵小型機に命中すれば、空中分解する程の威力があり、搭乗員の士気 を高揚させたが、防御装備厳重な大型爆撃機に対しては顕著な効果が少なかった。 それは炸薬の爆発力が過大で、燃料の漏洩前に着火薬の黄燐が燃焼してしまうためで、この対策として空気信管を考案して、燃料が漏洩してから着火するようにした。 これを焼夷通常一型弾と呼び、戦争末期に使われ、効果があった。

3 一三ミリ機銃

 海軍で一三ミリ機銃を採用したのは、米軍よりはるかに遅く、昭和十八年であった。
 昭和十二年、支那事変において戦利品として入手した、米国のコルト・ブローニング一二・七ミリ機銃と、購入した仏国ホッチキス社の艦艇用一三・一ミリ機銃とを研究して、三式一三ミリ機銃を完成し、零戦五二型乙から装備した。口径は一三・二ミリであった。
 二○ミリ機銃に遅動用の空気信管が開発されてから、一三ミリ機銃弾にも炸薬を入れた。

4 三〇ミリ機銃

 昭和十七年、航本は大口径機銃の研究を食う技廠に指示した。かねて三○ミリ機銃が、戦闘機の翼内装備に最も適している、と主張していた兵器部・川北智三技術少佐の、主な論拠は次の通りであった。
 (一) 三〇ミリの弾丸の炸裂威力は二〇ミリの三倍近くで、大型機撃墜に十分である。
 (二) 三○ミリ初速毎秒六〇〇メートルの弾道性は、二〇ミリ初速毎秒七五〇メートルのものより勝っていて、貫徹力もよい。
 (三) 発射速度は毎分二三〇発で低いが、命中弾道比は、二○ミリの二倍近くなる。
 機銃の設計は日本特殊鋼で行われた。(以下一七試と記す)
 一七試機銃はガス圧式の、極めて斬新優秀な設計で、良き以上の発射速度があったが、給弾機構に若干の無理があった。改造に改造を重ねて、完成するのに三年係り、二十年五月、五式三〇ミリ機銃として採用された。試験終了を待ち切れず、無駄と混乱を覚悟の上で、十九年七月に豊川工廠で量産に入った。終戦時、機銃の在庫は二、〇〇〇丁を越え、雷電の一部に装備したが、実用の機会はなかった。


種  別
初速
米/秒
発射速度
発/分
弾丸重量
(グラム)
機銃重量
(キログラム)
七・七ミリ
七五〇
一、〇〇〇
一一
一三
一三ミリ
八〇〇
八五〇
五二
二八
二〇ミリ    一号銃
六〇〇
五二〇
一二四
二三
二〇ミリ    二号銃五型
七六〇
七五〇
〃 
三八
三〇ミリ    二式
七一〇
三八〇
二六五
五〇
三〇ミリ    五式
七七〇
五三〇
三五〇
七一

 一七試は、烈風、秋水、震電、電光等に装備の予定であった。
 一七試と同じ時期に、大日本兵器研究所では、独自にエリコン型式による三〇ミリ機銃の設計が進められ、十七年二月には一号機が完成した。
 本機銃は一七試に比べ、初速、弾量ともに稍少なく、弾道性も稍不良で、航本からは私生児的な扱いを受けたが、翼内銃として機能作動は良好で、十八年五月、二式三○ミリ機銃として採用され、五十丁程生産された。実用実験のため零戦に装備して、ラバウルに送られ、戦果があったというが詳細は定かではない。後日、雷電に装備されて、B−29邀撃に効果があったといわれている。
 二五ミリ、四〇ミリ機銃も試作したが、途中で中止している。
 昭和十三年四月、十二空は実戦の所見として、戦闘機の機銃について次の二項を挙げている。
 一、 初速の少ない二○ミリ機銃は、百害ありて一利なし。
 二、一〇乃至一三ミリ機銃とし、機銃数の増加 これは一二試艦戦の計画に対する、現地部隊の所見でもあるが、二〇ミリ機銃の 成果はこの所見に反した。零戦の活躍は二○機銃に負うところが大きい。しかし初速、発射速度がもっと大きかったら、その成果は莫大であったと思われる。
 わが国は、一発の弾丸命中時の威力を重視して、二〇ミリを採用したが、米戦闘機は初速、発射速度の大きい機銃を多数装備(一二・七ミリ六丁)して、弾丸網で目標を捉え、多数の命中弾を得ることを目指した。威力の大きい二〇ミリも、命中しなければ効果はないから、この点を十分検討する必要があったと思われる。
 一三ミリが戦争末期になって、炸裂弾が使えたことを思えば、前記所見第二項は、先見の明というべく、直ちに研究開発を急ぐべきであった。

5 射撃照準器

 最初は、環型照準器を使用したが、昭和五年頃からオイジー(オルジス)型望遠照準器に換えた。照準精度は著しく向上したが、気温の急激な変化があると鏡面が曇り、また本体がじゃまして死視角を生ずる欠点があった。
 昭和七年、仏国のOPL社の光像式射撃照準器を輸入実験したが、光像不鮮明で実用に適しなかった。また榎本光学試作のものも、重量過大であった。
 光像式とは、特殊フィルターで覆った硝子板を、飛行機の軸線と四五度となるよう設置し、硝子板上に環型の照門を投射し、これを通じて目標を照準するもので、前記望遠鏡式の欠点のないものであった。
 昭和十三年春輸入した、独国ハインケル戦闘機搭載のレビス25型照準器が、性能の良い光像式であった。
 取扱説明書から、この照準器に使用された、ネオファンの硝子特殊フィルターの性能が解明されたので、旭硝子に研究を命じ、制作に成功した。照準器本体の設計は、航空廠で行い、高岡光学に製作を命じ、昭和十三年十二月完成した。九八式社爆照準器と命名され、零戦以降の戦闘機に装備された。一般にOPLと呼んでいた。
 光像式の不便な点は、飛行機の軸線と太陽の方角により、硝子板上に太陽の像が結ぶことであった。  B−29邀撃時、射距離の判定が適当でなく、遠距離から射撃し勝ちなので、硝子板上に目盛をつけ、目盛上の目標の大きさにより射距離の判定を可能にした。
 また射撃時の修正量は、敵機の交角、速力、射距離等に応じて搭乗員が勘でやっていたのを、自動的に修正角が作られる照準器を考案したが、実用には至らなかった。

6 写真銃及び活動写真銃

 写真銃は、初心者が実弾射撃を始める前に、その教育用として、センピル飛行団が来日の際携行、使用法を教えた。機銃の引金を引くと、シャッターが作動して、目標と照準点とが写り、これを現像することによって、照準の良否を判定するのである。
 昭和二年、国産一五式写真銃が採用になったが、フィルムの処理に時間がかかり、訓練当事者の記憶の確かな間に成績審査ができないので、搭乗員の興味も薄く、ほとんど活用されていない。
 わが海軍では専ら、射撃訓練用としか使用されなかったが、米軍では実戦にもこれを使用し、射撃による撃墜の確認、射撃時の照準の良否の判定等で、搭乗員の教育や反省資料として使用された。戦争末期にわが海軍でも、米軍のような目的で使用方式を検討したが、当時は既に訓練兵器の生産が中止されており、実戦での活用はできなかった。
 昭和六年、八九式活動写真銃が採用され、一連の射撃の照準の良否が判定できるようになったが、フィルムの処理其の他の作業が、前以上に繁雑になり、一部の部隊を除いてはこれも十分活用されていなかった。

7 三号爆弾

 飛行中の飛行機編隊を攻撃する爆弾で、一撃必中を目的とするものではなく、一つの爆弾から多数の弾子を放出し、傘状に編隊の上から撒布するものであった。
 爆弾重量は三〇キロ、投下後、時計式の時限信管発火装置により、空中で炸裂して弾子が飛び出す構造であった。各弾子の重量は約二〇グラム、総数約二〇〇個で、弾子の散布角度は約一〇〇度である。弾子には黄燐を内蔵して、敵機の燃料槽を破壊して、ガソリンに着火させる構想であった。また爆弾そのものが、直接敵機に命中した場合には、着発の信管が作動するようにした。
 昭和十四年に開発着手して、十七年秋、ラバウル方面に供給され、以後各戦線で使用された。
 使用法は敵の前上方より、真向かいに接近して投下するのであるが、彼我の相対速力が大きいため、投下時期の決定が難しく、かつ専用の照準器がなく、勘で投下するので、余り成果が挙がらなかった。

8 ロケット爆弾

(一) 小型ロケット爆弾
 三号爆弾は自然落下式の弾道であるため、精度が不良である。弾道を良くし一撃必中とするため、ロケット発射式のものを昭和十七年頃から開発した。
 ロケットには無煙火薬を使用し、全重量七・五キロ、炸薬量〇・六キロ、平均推力七四九キロで、最大毎秒約四〇〇メートルであった。
 この爆弾は、戦闘機の両翼下面に三本ずつ、計六本の発射軌条を設け、発射加速中に目標への直進進路を得るものであった。実験の結果弾道は良好であり、二〇〇メートルの水平射距離で、散布界は二メートル位であった。降下姿勢で発射されれば、精度はもっと良かったと思われるが、使用した記録は見当たらない。
 本爆弾は昭和十八年に完成している。

(二) 二七号爆弾
 昭和十九年頃、弾子散布方式の三号爆弾の自然弾道を、ロケットにより直進させることを研究した。
 全備重量六〇キロ、最大速毎秒二七〇メートルで、弾子は一二五個、焼夷剤は三号爆弾と同じく黄燐を使った。
 両主翼の下面に一本宛の発射軌条を設け、搭乗員の押釦操作で電気着火、射出するようにした。実験の結果によれば弾道の精度もよく、終戦前二カ月位の時期に実施部隊に供給され、三四三空、二一○空で使用された記録があるが、成果は不明である。しかし性能は優秀と思われるから、照準さえ良ければ、絶大な効果があったと考える。
 この爆弾用の照準器は開発の余裕なく、機銃照準器を使用した。

9 無線電話機

 昭和四年、一〇戦に無線電話機を積み、鳳翔で試験通話をした。また翌五年、M式を三式戦に搭載して、実験使用している。その後、電波を短波としたYT式空二号無線電話機が登場した。この電話機は昭和十二年頃まで使用され、その後九六式空一号に変わった。何れも明和電気(東通)が試作生産した。
 昭和十八年、沼津工廠で三式空一号が生産されることになり、これを使用して終戦に至った。使用実績については余話の項で述べている。

10 無線帰投装置

 広い洋上で、飛行機が母艦(基地)に帰る針路を知るためには、天測によるほか二つの方法があった。飛行機が電波を出して、母艦にその方向を測って貰う方法と、母艦が出す電波に飛行機を向け、常にその方向に飛行して帰る方法とである。後者に使用する電波機器を帰投装置といった。
 昭和十年、米国のクルシー社ほか数社のものの研究を始めたが、一二試艦戦試作に際し、クルシー帰投装置を輸入して装備した。その後これを改良国産化して、一式空三号無線帰投装置として東京電気、日本電気で生産した。
 太平洋戦争中、母艦で使って十分信頼され、利用価値を認められたが、母艦が電波を発射することにより、敵にその位置を暴露する危険はあった。しかし米軍がそれを探知した例は聞かない。
 基地航空隊では、ほとんど使用されなかった。
 本章を総括してみると、わが国の機体、発動機、搭載兵器の何れも、外国の模倣に始まっている。これは航空後進国のわが国としては、やむを得ないことであった。
 昭和七年、航空自立方針が樹立されてから、官民の技術陣の非常な努力の結果、機体は漸くその域を脱し、九六戦以降はわが国独自の設計による飛行機を造った。特に零戦は、当時どの国の戦闘機にも勝る傑作機であった。
 発動機技術陣も鋭意研究開発に力を尽くしたが、機体に比べ開発が一歩遅れ、特に重要部品についてはその感を深くする。加えて戦争後期、良質の燃料、潤滑油が使えなくなったので、米軍に対抗できる飛行機が出現しなかった。
 搭載兵器はそのほとんどが、模倣又は若干の改良に止まった。開発機構の不整備、開発着手の手遅れは、取り返しがつかなかった。戦争末期になって、わが国独自開発の兵器もできたが、成果を挙げるには至らなかった。
 結局、模倣だけでは、それをどんなに改良しても、所詮相手に勝ることは不可能であった。

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