第二章 海軍飛行機の開発と各種戦闘機
※背景は、中国大陸を飛ぶ十二空の零戦隊


第一節 飛行機の開発の概要

1 研究機関

 海軍最初の航空研究機関は、大正七年、東京築地に海軍航空機試験所として開設された。その後、所在、名称の変更はあったが、昭和初期まで次第に規模を拡充して綜合実験研究を続けた。
 やがて、強力な航空兵力の充実を必要とするようになったため、昭和七年、横須賀海軍航空隊(横空)に隣接して海軍航空廠が建設された。本廠は十四年、海軍航空技術廠(空技廠)と改称され、さらに昭和二十年、第二技術廠(電気、電波、音響関係)の設置に伴い、第一海軍技術廠と名を変えた。昭和十六年以降各地に設けられた航空廠(製造、修理、補給)とは別性格のものである。
 当初の航空廠は、科学、発動機、飛行機、兵器、飛行実験の五部で構成され、以降材料部その他の部を加えて、研究、試作、審査、実験について、日本一の設備と陣容を誇った。各部混然一体となって、技術開発指導面で立派な成果を挙げている。

2 技術行政
 昭和二年、海軍航空本部(航本)が発足、航空機に関する技術行政は航本技術部の担当となった。
 昭和十八年、軍需省が創設され、陸海軍の航空本部所管のうち、航空機と航空兵器の製造に関する業務は同省に移管された。
 軍需省は、生産力の総力発揮のため創設されたものであるが、時、既に遅く、その成果は必ずしも初期の目的を果たせなかった。特に試作は航本、生産は軍需省と管轄を別にしたため、試作面で支障を生じたことが多い。
 航本技術部は、太平洋戦争勃発頃までは、その機能を充分に果たしている。戦争が激しくなると、工業力の低下もあり、用兵側の相次ぐ要望の対応に苦しみ、指導方針に一貫性を欠いたきらいがある。これが試作機の完成を遅らせる原因の一つとなった。

3 試作製造
 軍の施設には、初期横須賀工廠造兵部飛行機工場と、広工廠飛行機部があった。前者は航空廠ができると閉鎖されたが、後者は相当の規模内容を持ち、後継機の開発に貢献した。
 航空廠(又は空技廠)は、研究施設の外に、試作機能を持っていた。試作は民間会社に発注するのが原則であったが、研究目的で試作する場合等には、航空廠で試作するのを例とした。
 航空廠で試作、実用機となったものに艦爆「彗星」、陸爆「銀河」があり、試作のみで終わったものに陸偵「景雲」等がある。局地戦闘機「震電」も航空廠の設計である。(試作は九州飛行機)
 海軍航空の初期に、その将来に対し卓見を持った、中島知久平海軍機関大尉は、大正六年、自ら海軍をやめて、群馬県太田町に飛行機工場を創設した。これはわが国飛行機製造会社の草分けである。
 中島飛行機に続いて大正九年までに、三菱造船、川崎造船(陸軍機を主とした)、愛知時計、川西機械が飛行機工場を造った。各社は競って外国より技術を熱心に吸収しながら、逐次規模内容の充実拡大に努力した結果、支那事変近くには、先進各国に比し表面的には余り劣らぬ実力を持つようになった。しかしその内容においては、一般工業力、特に精密工作の水準が低いため、優劣の差が大きく、特に試作過程において障害を生じ、或いは生産過程においても少なからぬ支障の原因となった。
 その後、海軍関係では渡辺鉄工所(後の九州飛行機)、昭和飛行機、日本飛行機、日立航空機等の誕生を見たが、その能力は先進各社には及ばなかった。
 海軍は大正末年から試作の確実性を期するため、二社又は三社を指定して、同一機種の試作を命じた。これを競争試作といった。競争試作は各社の設計製造技術を刺激し、それを向上させるには大いに役立った。しかし一方各社の秘密主義を助長し、同一失敗の繰り返し等の無駄も多く、かつ発注機種の増加に伴い、試作能力は限界に達したので、昭和十五年からはそれまでの実績に照らして、一社のみに試作を命ずるようになった。

4 横須賀海軍航空隊(横空)
 予告右派海軍航空の用兵研究の中心にあった部隊である。航空廠の審査に合格した試作機は、横空に渡されて、用兵的見地から審査を受けることになっていた。
 その部隊と航空廠が隣り合わせに存在したことは、飛行機の研究、試作の面で多大の効果があった。
 飛行機の用兵的価値は、その性能により左右されるし、飛行機の性能は用兵の要求により向上する。航空廠飛行実験部では、実施部隊で相当の経験を持った。海軍兵学校出身の飛行機搭乗士官が、審査の配置にあたった。彼等もそれぞれ用兵眼を持っていたので、予告宇野用兵思想と相容れない場合もあった。第四章(後日紹介予定)、性能論争の部で、たびたび述べられる事項はその例である。
 また横空側は用兵一本槍であり、飛行実験部側は多少技術的条件を考慮するので、過程において食い違いを生ずることもあったが、その都度十分に意見を述べ、結論を得るように努めた。しかし零戦の場合は結局、結論としてはまとまらなかったが、三菱の非常な努力によって、両社とも満足する飛行機ができた。
 横空での飛行実験中に、不具合の箇所がでれば、すぐ航空廠の担当者が原因探求に立ち会った。このように横空と航空廠が、常に緊密に連絡を取っていたことは、飛行機の開発に大いに役立った。

次頁へ


「海軍戦闘機隊史」目次に戻る