第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘


2 捷号作戦(比島の失陥)

 捷号作戦計画 国運を賭した「あ」号作戦は完敗し、マリアナ諸島は陥落した。これは絶対国防圏の崩壊を意味するものである。軍令部はその後の作戦を企図した。
 十九年七月二十六日に、この作戦を「捷号作戦」と呼称し、主作戦生起の地域により、「捷一号」(比島方面)、「捷二号」(九州南部、南西諸島及び台湾方面)、「捷三号」(本州、四国、九州方面及び情況により小笠原諸島方面)、「捷四号」(北海道方面)に区分した。
 しかし、空母航空兵力はマリアナ沖海戦で潰滅的打撃を受けていた。当時、第三艦隊の攻撃用空母数は近く就役のものも含め一〇隻があったが、搭乗員と飛行機不足で、空母航空戦力の回復は間に合わなかった。
 やむを得ず、次期決戦準備では、基地航空部隊の再建に重点を置かざるを得なかった。そこで、陸軍航空もあげて対米作戦に投入されることになった。決戦予想時期までに見込まれる可動兵力は、海軍約一、三〇〇機、陸軍約一、七〇〇機計約三、〇〇〇機であり、それは予想される連合軍対日正面航空兵力の三分の一である。
 大本営は陸海軍航空戦力の統合発揮を重視した。その主攻撃目標を機動部隊と攻略部隊のいずれに置くかについて、陸海軍部の間で議論された。海軍側は機動部隊の撃滅を主張し、陸軍側は、海軍の現在の実力と過去の実績に照して、むしろ機動部隊の空襲を躱して兵力を温存し、攻略部隊に対して陸海軍航空兵力で一挙に殺到し、その覆滅を図ることを強調した。
 結局、「敵の渡洋進攻部隊に対する航空決戦」要領を、「一部の奇襲兵力を以て敵空母の漸滅を図るとともに、敵をしてなし得る限りわが基地に近接せしめたる後、陸海軍航空の全兵力を投入して・・・・・・攻撃を反復し、敵空母及び輸送船を併せ撃滅す」ることを本則とする「捷号航空作戦に関する陸海軍中央協定」が七月二十四日に締結された。
 これを受けて、連合艦隊は、八月四日に「連合艦隊捷号作戦要領」を発令した。その骨子は、捷一号作戦の場合、次のとおりである。
 一航艦(第五基地航空部隊)及び二航艦(第六基地航空部隊)の全力を比島に集中する。このため、敵来攻前、二航艦は本土西部にあって比島に進出し得る態勢に置く。三航艦(第七基地航空部隊)及び十二航艦(第二基地航空部隊)の兵力は、第二線兵力として内地に待機し、特令により比島に進出する。
 第一遊撃部隊(第二艦隊基幹)はリンガ泊地、第二遊撃部隊(第五艦隊)及び機動部隊本隊(三、四航戦基幹)は内海西部に待機し、敵の来攻を予測するに至ったら、第一遊撃部隊はブルネイ方面に、第二遊撃部隊は内海西部又は南西諸島にそれぞれ待避する。機動部隊本隊は内海西部において出撃準備を整え、特令により出撃する。そして、敵が来攻すれば、比島に集中の基地航空兵力をもって、空母及び輸送船に集中攻撃を行い、一方、第二遊撃部隊及び機動部隊本隊は敵を北方に牽制誘致する。この場合、第一遊撃部隊の突入は敵の上陸開始後二日以内に実施するのを建前とし、航空総攻撃は第一遊撃部隊突入期日の二日前から開始するものとする。

(注1)第一遊撃部隊(指揮官栗田中将)
四戦隊 重巡「愛宕、高雄、摩耶、鳥海」
一戦隊 戦艦「長門、大和、武蔵」
三戦隊 戦艦「金剛、榛名」
五戦隊 重巡「妙高、羽黒」
七戦隊 重巡「熊野、鈴谷、利根、筑摩」
二水戦 軽巡「能代」、四コ駆逐隊等

第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将)
二一戦隊 重巡「那智、足柄」、軽巡「多摩、木曾」
一水戦 軽巡「阿武隈」、三コ駆逐隊

機動部隊本隊(指揮官小澤中将)
三航戦 空母「千歳、千代田、瑞鳳、瑞鶴」及び六五三空
四航戦 航空戦艦「伊勢、日向」、空母「隼鷹、龍鳳」及び六三四空

(注2)十月に実施される比島沖海戦には、搭乗員、飛行機不足のために、空母「隼鷹、龍鳳」は出撃しなかった。また、航空戦艦には飛行機を搭載していなかった。

 この作戦の発動要領は、敵の来攻を予測されるに至ったなら、連合艦隊司令長官は「捷〇号作戦警戒」を発令し、大本営の決戦実施方面の指示を得たのち「捷〇号作戦発動」を令するというものである。
 大本営海軍部は捷号作戦の航空決戦正面兵力として、一、二、三及び十二航艦を充当することにし、これらの部隊を南から順に、比島、北海道の間の各方面にそれぞれ配備した。これらの航空部隊の移動集中を迅速かつ柔軟にするため、大本営は七月十日付、基地航空部隊の改編を実施した際に、一、二及び三航艦に対しては空地分離方式を採用している。
 一航艦は再建を要した。三航艦は「あ」号作戦中に急遽編成された八幡部隊(二七航戦と横空飛行機隊で編成)を母胎として、七月十日付で新編されたものである。十二航艦は、従来北東方面航空作戦を担当していたもので、五一航戦がその主力である。
 基地航空部隊の中で、最有力航空艦隊として最も期待されていたのが二航艦である。「あ」号作戦中も、次期作戦に備え、内地で戦力培養に専念していたが、兵力、術力ともになお未完成であった。
 ほかに南西方面艦隊隷下の十三航艦があり、捷一号作戦の場合、艦攻、零戦約三〇機の一航艦への増援が予定されていた。
 当時の航空機生産は実績が計画をはるかに下回り、一方、搭乗員は所要員数を上回っていたが、熟練搭乗員は著しく減少しており、今後錬成を要する若年搭乗員がほとんどを占めていたので、戦力の低下は免れなかった。
 マリアナ沖海戦において、わが攻撃隊の大部分は、レーダー誘導による多数の敵戦闘機と、鉄壁ともいうべき対空砲火に阻止される悲運に遭っている。
 この打開策として得た結論は、敵戦闘機の活動不十分な夜間攻撃と、艦の動揺激しく発着困難な荒天時の昼間奇襲攻撃であった。
このための特別部隊が編成されることになった。
この部隊は全海軍から選抜の精鋭飛行隊及び海軍指揮下に編入の陸軍重爆戦隊をもって編成、「T攻撃部隊」と呼称された。Tの文字はTyphoonの頭文字を採ったものである。
その兵力は戦闘機2隊(戦闘701紫電24機、戦303零戦36機)、偵察機1隊(瑞雲)、攻撃機隊5隊(1式陸攻2隊、陸軍四式重爆、銀河、天山各1隊)から成る攻撃隊と、その他偵察機隊3隊をもって編成された。

 空母部隊は、1、3及び4航戦の再編に着手されたが、決戦に使用が予定されるのは3、4航戦の2コ戦隊であり、1航戦(「雲龍、天城」)は19年末までその使用は見込めなかった。機材も不足、搭乗員の練度も不十分であった。
 3航戦は空母4隻と653空(瑞雲水爆隊、彗星艦爆隊、艦戦1コ飛行隊)で編成された。航空戦艦とは、後甲板の砲塔を除去して飛行甲板を造り、射出機により飛行機を発艦させるだけで着艦はできない。これらの空母戦隊は、航空兵力の再建の都合上、内海西部にとどめられたが、第2、第3艦隊の水上兵力は空母の警戒兵力として内地に残留した駆逐艦を除き、ほとんど大半を燃料豊富なリンガ泊地に進出させた。

 米機動部隊の比島来襲 連合軍の太平洋における作戦は、19年4月以降米陸海軍の間に、進行目標について若干の紆余曲折があったものの、息もつかせない急テンポで進んだ。
 捷号作戦が大本営の企図するように、わが方に有利に進展するかどうかは、一に諸般の作戦準備が決戦予想時期までに間に合うかどうかにかかっていた。しかし、敵はわが方にその余裕を与えなかった。米機動部隊は一部をもって、8月末から9月初めにかけ、小笠原諸島を空襲する一方、主力をもって9月6日西カロリン方面に来襲している。

 来襲したのは、スプルーアンス大将と交代したハルゼー大将(第5艦隊を第3艦隊と名称のみ変更)摩下の第38高速機動部隊(正規空母9隻、軽空母8隻の4群、各空母搭載機数は正規空母<戦闘機40、急降下爆撃機35、雷撃機18>、軽空母<戦闘機23、雷撃機10>)である。

 西カロリンのパラオ諸島は連日空母機の猛攻下におかれ、9月12日にはペリュリュー、アンガウル両島に猛烈な艦砲射撃が加えられた。一方、ハルマヘラ方面に対する敵陸上機の空襲は、9月以降激化し、またビアク方面には敵艦船の集中が認められていた。こうした状況から見て、パラオ又はハルマヘラ方面に対する敵の攻略は逼迫したものと判断された。

 米機動部隊の主力は、その鉾先を転じて、9月9日南部比島のミンダナオ島を空襲した。当時、1航艦主力は中部比島のセブ方面に配置されており、兵力温存の方針に沿い、積極的な反撃は行われていない。

 空襲は翌10日午前をもって打ち切られた。しかし、この日早朝ダバオでは、いわゆるダバオ誤報事件と“呼ばれる事件が発生した。敵の空襲におびえた見張員の「サランガニ湾敵上陸舟艇近接」の誤報により、連合艦隊捷1号作戦の発令にまで発展した事件である。

 9月13日になって、米機動部隊は中部比島に突如来襲した。その空襲は3日間にわたった。寺岡謹平1航艦長官(第五基地航空部隊指揮官)は、9月9日の米機動部隊のミンダナオ島奇襲時、セブにあった201空の零戦の一部をダバオに派遣するとともに、中比地区への空襲を懸念して、セブ地区に待機中の主力部隊をマニラ方面へ避退させていた。しかし、ダバオ誤報事件により、ダバオ地区敵攻略部隊を撃滅するためセブ方面に進出させた201空主力を、9月12日の空襲で、地上に補足攻撃され大被害を出している。

 この日、セブ基地では201空が夜明けから全機即時待機として警戒態勢をとっていたが、朝を過ぎても敵機来襲の気配がなかったので、0800警戒態勢を解き平常に復した。この頃、米機動部隊は既に攻撃隊を発進させていたが、スルアン島の電探は敵編隊の近接を探知し得なかった。0900同島の視認見張りは大編隊が西に向かうのを発見した。

 セブの201空基地では、0910頃スルアンの情報を知り、司令山本栄大佐が急いで飛行場に飛び出したが、時既に遅く、0920スコールの間から米空母機の一群が現れた。

 セブ基地では、1130までの間に、戦爆連合約160機(F6F,艦爆各80)の波状攻撃が続き、数回の銃爆撃で、地上にあった零戦、艦爆計25機が大破炎上、28機が中小破するという甚大な損害を蒙った。この間、敵空襲の合い間に零戦41機が逐次発進し、敵機を邀撃している。

 この戦闘でF6F23機(うち不確実3)の撃墜が報ぜられたが、201空は自爆9機、未帰還16機、落下傘降下2機の犠牲を出した。それらの中には、飛行隊長(戦306森井宏大尉)、分隊長1名のほか、もともと数少ない練達搭乗員の多くが含まれている。

米機動部隊の空襲が再建途上の一航艦に及ぼした影響は測り知れないものがあった。航空機材だけでも、9月1日の可動250機から9月12日に99機に低下した。それは主に、零戦がセブでの被害により、可動130機(保有210機)から57機に半減したことに原因している。

この零戦の喪失は重大であった。というのも、1航艦の捷号作戦計画では、敵機動部隊撃滅の唯一の方策として反跳爆撃戦法を採用し、これに戦闘機の大部が充てられていたからである。これを一朝にして損耗しただけではなく、かけ替えのない搭乗員の多くを失い、反跳爆撃戦法に敵機動部隊撃滅の活路を求めようとしていた同艦隊の企図は、切迫しつつある敵の比島進攻を前にして頓挫をきたした。

この反跳爆撃については、第5章で説明される。

1航艦主力の損害は、海軍中央当局に大きな衝撃を与えた。航空機生産不足の窮状のなか、現地部隊の不手際に強い不満があった。

また、軍令部は9月16日敵機動部隊に対する作戦指導方針を改めた。兵力温存にとらわれて、いたずらに兵力を損耗するような消極退嬰の作戦に陥るのを戒め、敵機動部隊に対し積極的攻勢を指導したものである。しかし、積極的攻勢のためには、部隊は哨戒に力を注ぐ必要があり、その結果攻撃機数低下を来たし、訓練不足になり、肝心の決戦時に攻撃兵力に事を欠くようになる。中央部も現地部隊もジレンマに陥っていた。機材、搭乗員の兵力不足を解決しなければ、このジレンマを解消することはできない。

1航艦の相次いでの不手際は、陸軍側にとっても打撃であった。海軍の担任である遠距離洋上哨戒の不備により、米機動部隊の中比空襲は奇襲となり、陸軍第4航軍も12日、バコロド地区で約65機が破壊されるという大損害を受け、陸軍は海軍の作戦方針に対する危惧を深めた。

また12日の空襲で、セブ湾内の艦船24隻沈没、4隻大破し、商船だけでも計2・7万トンに達する大損害を出している。

この時来襲したのは、ハルゼー大将摩下の米第38高速機動部隊である。この攻撃で、わずかに8機と10名の搭乗員を失っただけで、相当な戦果を挙げたハルゼー提督は、中部比島は手薄な防備力と貧弱な施設しかないと判断した。そして、ヤップ及びパラオの攻略計画を今後取り止め、この作戦に使用予定の地上軍をレイテ進攻のため、マッカーサー部隊に編入転用すべきことを勧告する緊急電を、9月12日(真珠湾時間)にニミッツに送った。その結果、米中央統帥部は、計画を2カ月繰り上げて、10月20日にレイテ進攻のため協同するよう、マッカーサー将軍とニミッツ提督に指令した。

9月15日、米軍はペリュリュー島とハルマヘラ島北側の小島モロタイ島に同時に進攻して来た。

米機動部隊は、突如として北比に来襲、9月21、22日の両日連続して比島の首都マニラを空襲、24日には再び中比を襲っている。

1航艦の退嬰消極の作戦に陥るのを戒めた軍令部次長電を受けて数日にもならない1航艦長官寺岡中将は、21日昼に電報を発し、「当隊本日全力をもって敵機動部隊を攻撃せんとす」と、その決意を摩下の部隊に明示した。

その日の夕刻、153空のマニラ派遣隊戦901の全兵力(月光3機、零戦1機)が敵機動部隊の索敵攻撃に向かい、マニラの北東155カイリ付近に2群の空母群を発見した。

翌22日朝、201空の挺身攻撃隊(零戦15機全機爆装、指揮官戦301飛行隊長鈴木宇三郎大尉)は、この海面に空母群を発見、爆撃を敢行したのち、空母に対して3回にわたり銃撃を加え、さらにF6Fの3機を撃墜したと報じた。この攻撃で零戦6機が失われている。

23日現在、可動兵力は、零戦25、陸攻14、天山20、艦爆、月光、陸偵合わせ4計63機に過ぎなかった。

また、この3日間におけるわが艦船の被害は、沈没だけでも艦艇7隻、船舶31隻の大量に及び、南方と内地との交通は一層逼迫することとなった。

前後4回にわたる米機動部隊の来襲において、各回とも初日の空襲はわが方にとって全くの奇襲となっている。これは航空哨戒兵力の不足、無線防諜の欠如、電探見張、通信等の諸施設の不備に基づくものである。

ペリュリュー、モロタイ両島の米軍の来攻によって、豊田長官は、25日「捷1号作戦準備として基地航空部隊の展開躍進準備を10月中旬迄に完了」すべき旨命令した。

全般の作戦指揮をより効果的なものとするため、9月29日連合艦隊司令部は、旗艦「大淀」から横浜の日吉台(慶応義塾大学構内)に移転した。

台湾沖航空戦


(1)米機動部隊の沖縄来襲

 10月10日、米機動部隊は突如南西諸島方面に出現し、艦上機延1396機で沖縄、奄美大島、久米、宮古等の各島を空襲した。これも全くの奇襲であった。来襲したのは第38高速機動部隊である。

 この日の空襲で撃墜破9機の戦果が報ぜられたが、わが方の損害は、飛行機約30機(ほかに陸軍15機)を喪失。潜水母艦「迅鯨」、魚雷艇13隻、特殊潜航艇2隻等を含む艦艇22隻、船舶4隻沈没という甚大なものである。米側資料によれば、米軍の損害は飛行機21機、搭乗員9名である。

(2)台湾沖航空戦

 米機動部隊の攻撃目標は、沖縄の次は台湾であった。米軍は、攻撃目標が比島であるとみせかけて、台湾に奇襲攻撃をかけようと計画した。10月11日午後、2コ任務群は61機の攻撃隊を発進させ、ルソン島北部の基地を空襲した。日本側の被害は少なかった。10月6日高雄に進出した2航艦(第6基地航空部隊、司令長官福留中将)司令部は、10月11日の索敵状況から、12日米機動部隊の来襲は必至とみた。

 台湾では、12日0340空襲警報を発令し、厳重な警戒を行った。米機動部隊の今回の奇襲作戦は成功しなかった。

 米機動部隊は、0648以降数次にわたり、戦爆連合1378機で、台湾全島に対し空襲を加えた。

 この日、敵機に対する邀撃は、早期待機態勢にあった2航艦の21航戦及び陸軍8飛行師団の制空部隊によって行われている。

 21航戦では、0600以降、新竹、台南及び高雄の各上空に零戦4機、同10機及び紫電7機をそれぞれ配備し哨戒を行っていた。その間、敵編隊近接の情報に基づき、待機していた邀撃隊は0700から0710にかけて各基地を発進した。

 新竹方面では、0720上空哨戒中の零戦4機(戦312)が、F6F、TBF約20機と交戦し、また同時刻邀撃隊の零戦33機(指揮官戦312飛行隊長片木圭二大尉)が米戦爆連合約50機と戦闘を交え、新竹から桃園に至る空域にわたって凄惨な死闘が繰り広げられた。この戦闘で撃墜24機(うち不確実7)の戦果が報ぜられたが、わが方もまた自爆12機、未帰還2機、落下傘降下2名の損害を出している。第2回目以降の邀撃は可動機数が大幅に減少したため、延127機が各回2〜5機単位で散発的にしか出撃できなかった。敵機の来襲もまた少数機にとどまった。そのうち0843発進の零戦5機はF6F6機と交戦し、撃墜2機及び自爆1機、0910発進の零戦3機は撃墜2機及び未帰還2機、落下傘降下1名、また1320発進の零戦2機はF6F約10機と交戦し、撃墜1機及び自爆1機の各戦果及び被害が報ぜられた。

 台南地区では、0713台南基地を発進した台南空及び高雄空の零戦25機及び上空哨戒中の零戦12機(筆者注 前項では10機とあるが、資料源が異なる)の計37機(指揮官高雄飛行隊長村田芳雄大尉)が、0720基地上空優位に在ったF6F30〜40機と交戦し、戦果撃墜10機(うち不確実3機)及び自爆・未帰還を合わせ17機の被害が報ぜられた。

 一方、高雄方面における邀撃は、高雄基地に配置の紫電隊(指揮官戦401飛行隊長淺川正明大尉)によって行われた。上空哨戒中の紫電7機は、0700、2群に分散した敵戦爆連合約60機を発見、優位から空中戦を挑んだ。これと前後して紫電24機と零戦1機が空中に上がったが、集結を終えないうちに敵と交戦することになった。この日、敵の空襲は高雄地区に集中したので、第2回以降は邀撃は4機が纏まるのがせい一杯であった。この日の戦闘で戦果撃墜10機、被害14機と報ぜられた。

 紫電がF6Fと戦闘を交えたのは、この日が最初である。341空戦401飛行隊の第1陣17機が8月末、第2陣約25機が9月中旬、高雄に進出したが、紫電の機数は、10月1日現在で保有32機(可動20)になっていた。

 陸軍第8師団の戦闘機も果敢に邀撃した。全機撃墜された隊もあれば、一方的な戦果を挙げた隊もあった。使用機は1式戦、3式戦、4式戦と多彩である。

 この日、台湾所在の陸海軍戦闘機120機が邀撃を行い、戦果は撃墜破50機、損害は80機と報ぜられた。たった1日の邀撃で、海軍戦闘機兵力は可動26機(零戦18、紫電8)に減少してしまった。米側資料によれば、この日の空襲による米機動部隊の被害は48機である。

 この空襲当日、高雄の14連空司令官によって打電された戦訓速報は、F6Fについて「上昇力は格段に大なるものの如し」「搭乗員の空戦射撃技量きわめて優秀なるものの如し」と高く評価している。期待された新鋭紫電もF6Fの総合空戦性能に劣った。この性能差をカバーする熟練戦闘機乗りは、この時のわが海軍には極めて少なかった。

 米機動部隊の台湾来襲を知った連合艦隊司令部では、大本営と協議のうえ、12日1025「基地航空部隊捷1号及び捷2号作戦発動」を発令した。

 連合艦隊豊田長官は、比島視察の途上、9日新竹に立ち寄ったところ、米機動部隊の来襲があったので、そのまま新竹基地に足止めをくっていた。豊田長官はいらいらして、捷号作戦発動の発令を待っていた。リンガ泊地にあって、戦況の推移を見守っていた宇垣纏中将は、10月12日の日誌のなかで「何時もながらその時期の遅きを憾ましむ」と評している。  

これより先、12日未明、2航艦福留長官は、沖縄方面からのT攻撃の実施を下令した。(T攻撃部隊は、9月25日福留長官の指揮下に入った)

これに基づき、T攻撃部隊は台湾東方海面の敵機動部隊に対し、陸攻33機、銀河22機、天山23機及び陸軍の4式重爆21機で夜間攻撃を実施した。

この日はT攻撃部隊の攻撃にふさわしく、はるか洋上には台風が襲来していた。この攻撃の戦果を高雄の2航艦福留長官は、13日0115、次のように速報した。

「撃沈2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり 中破2 艦種不詳、内1隻空母の算大なり」

ところが、米側資料によれば、12日のT攻撃による米軍艦艇の損害はなく、衝突事故で駆逐艦1隻が損傷しただけである。

他方、味方損害は少なくはなく、14日までに判明した未帰還機数は54機(陸攻24、銀河7、天山14、4式重爆9)にのぼった。

10月13日早朝、米機動部隊は台湾の東方約80カイリ付近に達し、昼まで数次にわたり、台湾各地を空襲した。出撃機数は974機である。

敵機邀撃は、前12日の戦闘で、戦闘機の大部を喪失していたため低調であった。

空母を含む4隻の撃沈破を報ずるT攻撃戦果の第1報に接した連合艦隊司令部は、T攻撃部隊の前夜の敢闘を激賞するとともに、14日を期して決戦に突入するよう激励電を発した。

一方、久しく絶えて聞かれなかった敵空母撃沈の戦果を、早くも初出撃においてあげたT攻撃部隊は、第2回目の出撃では、台湾東方の「残敵空母」撃滅の決意に燃えていた。

10月13日もまた台湾東方海面を北上中の台風の余波を受け、天候は悪化していた。

  T攻撃部隊は1式陸攻24機(攻撃隊雷装18機、直協隊6機)、銀河4機(雷装)、戦303零戦12機が、1330から1410の間に鹿屋方面から出撃した。零戦隊は攻撃隊を宮古島南方まで掩護し、日没時、石垣島基地に帰投する計画となっていた。

米機動部隊を発見した各隊は、それぞれ薄暮の好機に攻撃に入った。戦場付近は、前日と同様半晴の状態で、大空の上下二段に雲層がたれこめていた。スコールの間に正規空母、軽空母合わせて約8隻の空母群がいた。

この戦闘で、攻撃隊は陸攻、銀河計28機のうち18機(陸攻15、銀河3)が未帰還となっている。

T攻撃部隊司令部において、12日、13日両日の戦果を検討の結果、T攻撃部隊指揮官は、14日夕刻にその戦果を次のように報告した。 12日 空母6ないし8隻轟沈(内 正規空母3〜4を含む) 13日 空母3ないし5隻轟沈(内 正規空母2〜3を含む)  その他両日共相当多数艦艇を撃沈破せるものと認む。

 T攻撃部隊の戦果報告に、海軍部や連合艦隊司令部は驚喜した。

 しかし、宇垣第1戦隊司令官は、日吉台の司令部の作戦指導態度に憂慮を見せて、10月14日の日誌に次のように記している。

 「連合艦隊参謀長は前述攻撃部隊の戦果をそのまま発表せり。士気高揚には大げさも可なる時あるも、作戦指導の任に在る者、徒らに戦果を過大視して有頂天に陥るは大いに警戒を要す」

 10月14日は、0700から米戦爆連合約250機(米側資料 戦闘機146 爆撃機100、そのうち戦闘機17、爆撃機6を失った)が基隆、新竹、台南、屏東の各地区に分散飛来した。主として、飛行場を目標にして約2時間にわたり銃爆撃を繰り返したのち、東方海上に避退し、0930以降空襲は全く途絶えた。そして、これを補足するかのように午後には中国からB29約100機が来襲した。索敵機の情報から判断して、米空母部隊は避退を始めた模様であった。米機動部隊に反復攻撃を加え、殲滅させる絶好の機会のように思われた。

 捷1号、2号作戦のため、1航艦(在比島)、2航艦の全力のほか、西日本に配備されていた3、4航戦、関東地区にあって進出を待機していた51航戦を含む3航艦(第7基地航空部隊)派遣兵力を結集して総攻撃をかけることになった。

 10月13日の夕刻までに、南九州基地に進出した3航艦及び3、4航戦の2航艦(第6基地航空部隊)指揮下派遣兵力は計約400機になった。

 2航艦、3航艦の基地航空兵力と3、4航戦の空母航空兵力で西第1空襲部隊が編成された。

 14日朝、西第1空襲部隊総攻撃部隊約380機(第1攻撃隊―偵察機14、戦闘機80、彗星40、銀河24、第2攻撃隊―偵察機12、戦闘機105、99艦爆47、天山56)は九州基地を発進、沖縄方面において補給の上、第1攻撃隊は1330、第2攻撃隊は1430、それぞれ「残存敵機動部隊」を索めて出撃した。

 第1攻撃隊が沖縄を出発しようとする頃、1300、3機の索敵機が石垣島の南西約90カイリ、同島の南方約70カイリ及び南東約120カイリの各地点に、空母5隻を基幹とする敵機動部隊をそれぞれ発見した。

 前日の13日に南九州の各基地に進出したばかりで、しかもそれぞれ所属を異にする飛行機隊で急遽編成された総攻撃部隊は、全くの混成部隊である。そのうえ、通信機用の水晶片の準備が間に合わず、使用周波数も各隊まちまちで、各隊相互間の通信連絡はできず、分離したままに各編隊個々に索敵攻撃を行わざるを得なかった。搭乗員の大部分は悪天候下の索敵攻撃に不慣れであった。おまけに、「天候曇、雲量10、雲高500メートル、視界5キロ」という気象状況は、大兵力の集団行動には不適であった。

 そのために、雷撃隊や爆撃隊は戦闘機隊の掩護を受けられずに、単独で敵機動部隊に突入した隊が少なくない。

 第1攻撃隊の攻撃状況は、第1爆撃隊(彗星40機)のほか明らかでない。第1爆撃隊のほかは、大部が未帰還の事実から、第1攻撃隊が敵を補足攻撃したのは確実と思われた。

 第2攻撃隊は、天山艦攻隊の17機が石垣島の南方の敵機動部隊を補足攻撃した。その天山艦攻隊も指揮官1機だけが帰還している。

 予想地点に敵を発見できなかった第2攻撃隊の大部が、攻撃を断念して台湾基地への帰途、1720鵞鑾鼻の60度100カイリの地点でF6F14機の奇襲を受けて交戦、その6機(うち不確実1)の撃墜を報じたが、わが方も天山2、零戦3、紫電1計6機を失った。

 西第1空襲部隊の帰投兵力の詳細は明らかでないが、戦史叢書では、各資料を総合して、帰投兵力を226機としているので、未帰還は一応112機となる。

 この昼間攻撃に引き続き、T攻撃部隊47機により夜間攻撃が実施され、27機が未帰還となった。

 10月14日にわが軍の攻撃によって受けた米軍艦艇の損害は、米側資料によれば、損傷空母1、軽巡2、駆逐艦2計5隻である。

 これに対して、わが方の戦果報告をみてみよう。
 51航戦司令官は、西第1空襲部隊の10月14日総攻撃(昼間)の戦果を「第1攻撃隊は空母3、第2攻撃隊は空母2とそれぞれ相当なる損害を与え得たること確実なりと認む」と10月18日に報告している。

 また、14日や夜間のT攻撃部隊の戦果は、翌15日に戦闘速報で次のように報告された。
 轟沈    戦艦1
 撃沈確実  大型空母1、小型空母1、甲巡1
 沈没略確実 小型空母1、戦艦1、乙巡2
 (注)炎上中確認を撃沈確実、数箇所から火焔を吹き火災確認を沈没略確実と表現している。

 10月14日1026に発電された「T攻撃部隊戦闘概報」は、12日夜間攻撃の戦果を、轟撃沈4隻(空母の算大)、炎上確認10隻、魚雷命中確実3と訂正した。

 連合艦隊司令部では、徹底的に戦果拡充を図る好機と判断し、14日1226、内海西部に在った第2遊撃部隊指揮官(第5艦隊志摩長官)にあて「台湾東方の海面に進出、好機に投じ敵損傷艦の補足撃滅並びに搭乗員の救助に任ずべし」と下令した。

 こうして、10月15日総追撃戦の名のもとに行われた2航艦の攻撃は、連日の作戦で出撃機数が低下したうえ、バラバラ攻撃となり、かつ天候に災いされて、大部は敵を補足できず、また敵機動部隊付近まで進撃した一部も敵戦闘機の阻止に遭って、攻撃は失敗した。

 この日マニラ哨区の索敵機は、0800マニラの66度240カイリに空母4隻を基幹とする敵機動部隊を発見した。比島の1航艦寺岡長官は第1次攻撃隊(爆戦7機、掩護零戦19機、指揮官戦305飛行隊長指宿大尉)を発進させた。

 第1次攻撃隊は、邀撃してきたF6F群と交戦、7機を撃墜、空母1隻に至近弾、巡洋艦1隻に命中弾を与え、また飛行機は発艦中の空母を銃撃して甲板上の飛行機を炎上させた。大転舵のために飛行甲板上の飛行機数機が海中に転落するのを認めたと報告した。この攻撃で爆戦6機が未帰還となっている。

 米側資料によれば、正規空母「フランクリン」が第1次攻撃により損傷を受けた。その時「フランクリン」はまだ戦闘配置についていなかった。信号艦橋の見張員が直上を旋回中の3機のジュディ(彗星の米軍呼称)を発見した。2機は急降下中に対空砲火で撃墜された。3番機は爆弾を投下したあと被弾し、左舷の直ぐそばの海中に墜落した。その爆弾は角に命中して乗員15名を殺傷している。 

 一方、カーチスSB2C24、F6F16計40機から成る敵の第1次空襲は、1025マニラ地区に向けられ、朝から邀撃配備についていた零戦約50機が飛び上がった。ニコルス飛行場では並べてあった囮機に攻撃が集中したため、天山1機が炎上しただけである。戦果は空戦による撃墜F6F25機(うち不確実1)、地上砲火による撃墜2機、撃破3機と報ぜられた(わが損害不詳)。

 第4航空軍も戦闘機約30機で邀撃し、撃墜9機(うち不確実5)の戦果を挙げたが、味方機13機を失った。

 1400、第2次攻撃隊(1式陸攻3、零戦9、陸軍戦闘機63)がクラーク基地から、そして天山12機、零戦4機がツゲガラオ基地から出撃した。攻撃隊は1540頃多数の敵戦闘機に遭遇し、わが戦闘機隊がこれを排撃する間に、陸攻隊は輪型陣に突入した。

 第2次攻撃の戦果は、空母1隻撃沈、空母2隻の甲板上の飛行機炎上、撃墜F6F10機(うち不可確実3)、陸軍によるもの撃墜20機(うち不確実9)と報告された。味方の損害も少なくなく、自爆・未帰還陸攻3機、天山8機、零戦3機、陸軍機9機に及んでいる。

 この時、1式陸攻に搭乗し、陣頭指揮に当たった26航戦司令官有馬正文少将(戦死後、中将に進級)は遂に帰らなかった。

 有馬司令官は、第2次攻撃隊の出撃直前に、飛行場で突然陸攻に搭乗して攻撃を指揮すると宣言した。有馬少将の出撃は、危急の戦局を打開するためには陣頭指揮以外にはない、との同少将のかねてからの強い信念を実行したものと推測される。有馬司令官は敵艦に壮烈な体当たりを遂げたと伝えられ、全軍に衝撃を与えた。1航艦の搭乗員の間には「有馬司令官に続け」と奮起する気風がにわかに漲り、士気は一段と高揚した。

 1航艦は15日1日で未帰還36機に及び、翌16日の可動機数は零戦12〜16機、彗星1機、銀河2機、陸攻3機、天山7機、月光1機に過ぎなくなってしまった。

 10月12日以来3日間にわたる台湾の2航艦の善戦に続いて、10月15日、比島の1航艦の攻撃成功、大きな戦果を挙げたという報告を受けた大本営海軍部と連合艦隊司令部には、いま一息で敵を殲滅し得るかに見えた。

 海軍部では、台湾東方海面に多数の損傷艦が存在すると判断し、その処分のため水上部隊の全力(第2遊撃部隊の他に「大和、武蔵」を含む第1遊撃部隊をも投入)を出撃させようと意気込んだ。また、今こそ戦局好転への道が開けつつあるとみた連合艦隊司令部は、再度にわたり基地航空部隊を激励し、「壊滅寸前の敵機動部隊」に対し徹底的追撃戦の続行を命じた。

 10月15日、ハルゼー提督は、被害の大きい重巡「キャンベラ」と軽巡「ヒューストン」で「おとり戦隊」を編成し、その援護隊として軽空母2隻等を派遣した。そして、空母群2隊を待ち伏せさせていた。

 10月16日、台湾からの索的で0915、高雄の110度260カイリに空母2隻、戦艦2隻その他2隻から成る1群、その東方約20カイリに戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦数隻の他の1群の敵部隊を発見した。

 わが海軍中央部が判断した「明らかに敗走中の敵機動部隊の一部」と思われるこの敵に対し、台湾から約120機、鹿屋からT攻撃部隊の25機、比島から22機が攻撃に向かった。

 1100から1130にかけて台湾を発進した攻撃隊(銀河8、天山18、99艦爆37、零戦40計103機)は、1345F6F30数機の邀撃に遭った。零戦隊が反撃している間、雷撃隊は突進した。

 零戦隊は敵機4機(うち不確実1)の撃墜を報じた。雷撃隊の攻撃状況は不明であったが、空戦後、米機動部隊を発見した零戦搭乗員の視認したところによれば、空母らしいものが1隻炎上、その周囲を護衛艦が旋回していた。また、戦艦1隻(米側資料によれば、軽巡「ヒューストン」に該当するものと思われる)が停止し撃破されている模様であった。この攻撃で、銀河7、天山14、零戦9計30機が未帰還となった。なお、99艦爆隊は敵を発見せず全機帰還している。

 新竹から発進した攻撃隊(18機)、鹿屋からのT攻撃部隊及び比島からの攻撃隊は敵を発見できなかった。

 米側資料によれば、台南からの攻撃隊が捕捉した敵は低速避退中の「おとり戦隊」である。わが攻撃隊を邀撃したF6F群は、この隊の2隻の空母から発進したものである。直衛を突破した3機の雷撃機が攻撃を敢行し、軽巡「ヒューストン」は、さる14日に続いて再び損傷を受けた。

 10月16日の航空部隊による追撃戦は、わずかな戦果を挙げただけである。ハルゼー提督は「日本軍は長蛇を逸しただけでなく、尻尾(しっぽ)さえも逃がした」と評した。2航艦先任参謀柴田文三大佐は、追撃不成功の原因を「10月17日夜における状況判断」のなかで次のように記している。
「1. 追撃戦のため、台湾方面にバラバラに着陸せる飛行機隊を台湾からの台湾甲乙攻撃 隊、沖縄と三方面バラバラに而も小兵力をもって、若干敵を下算して攻撃をかけたること。
2.戦闘機隊の援護全然功を奏しおらざること、術力極めて低劣、戦意また旺盛ならず」

 一方、この16日、鹿屋哨区では重大な敵情が索敵機から打電されていた。索敵機は、16日1030高雄の95度430カイリに、西航中の空母7隻、戦艦7隻、巡洋艦10数隻から成る敵機動部隊を発見した。

 空母7隻に関する敵情報告は、大本営海軍部と連合艦隊司令部にとって、青天の霹靂ともいうべきものであり、いままでの戦勝ムードに終止符を打った。この報告が中央部に届いたのは正午前であったようである。

 この敵情報告を入手すると、連合艦隊司令部は、前日15日豊後水道を出撃し、既に沖縄列島線の東側を残的掃蕩のために一路南下中の第2遊撃部隊指揮官に対し、沖縄島の西方を迂回して残的処分に向かうよう、16日昼過ぎ電報した。

 奄美大島の南東150カイリ付近を南下進撃中の第2遊撃部隊は、16日午後から敵艦上機の接触を受け始めたので、志摩中将は進路を北に転じ、危うく虎口を脱した。

 2航艦司令部においては、10月15日、当日の敵情報告によって、従来の戦果判定に検討を加え、空母に対する最終的な戦果を大型、中型を合わせて4隻撃沈と判断した。つまり、1群分(約4隻)を撃滅できたものの、他の3群分は健在とみたのである。この戦果判定の重大な訂正は、海軍部にも連合艦隊にも、報告されなかった模様である。

 10月16日の空母7隻発見の敵情報告によって衝撃を受けた連合艦隊司令部は、時間の経過とともに、戦果に対する疑念はますます濃くなっていった。検討の結果、台湾沖航空戦の確実な戦果は、空母4隻を撃破した程度であるということになった。連合艦隊司令部において戦果判定の決着が得られたのは、どんなに早くとも18日の午後のことであると、戦史叢書は推定している。

 戦果判定の多くは、わが自爆機の海面での火炎に基づく搭乗員の誤認と考えられた。攻撃は薄暮から夜間にかけて行われた。そのため、攻撃機のなかには、自己の発射した魚雷が丁度敵艦に到達したと思われる頃、たまたま僚機が目標付近で撃墜されて炎上したのを魚雷命中と見誤り、また敵の対空砲火又は自爆機の火炎により敵艦が照らし出されて消えたのを轟沈と勘違いし、それが過大な戦果報告の原因になったものと思われる。このことについては、ハルゼー提督も、その著書の中で、日本機が米機動部隊の撃滅を報告したのも無理もないと、次のように述べている。
「12、13日の夜には、日本の飛行機がわが艦隊の周囲の海面で盛んに燃え、見方の艦が瞬間的に光の影になったので、その艦自身が燃えているのではないかと思えたほどであった」

 米側資料による損害は次の通りである。

日  付
損    傷
十月十二日
駆逐艦一隻(味方射ち)
十三日
空母「フランクリン」(自爆機による)
重巡「キャンベラ」(魚雷命中)
十四日
空母「ハンコック」(爆弾命中)
軽巡「ヒューストン」(魚雷命中)
軽巡「リーノー」(自爆機による)
駆逐艦二隻(機銃掃射と衝突による)
十五日
空母「フランクリン」(爆弾命中)
十六日
軽巡「ヒューストン」(魚雷命中、二度目)

  米艦艇に沈没はなかった。

 12日から16日までの連合艦隊の戦果報告は、空母だけでも轟撃沈10隻、撃破8隻というものであり、大本営は19日わが方の総合結果として「轟撃沈 空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦若しくは駆逐艦1隻、撃破 空母8隻‥‥‥」と発表し、国民を狂喜させた。前記のように18日には、台湾沖航空戦の戦果は空母4隻撃破程度と判断されているにもかかわらず、19日に大々的戦果発表を行った動機については、今日も判然としないものがある。
「連合艦隊では、従来、搭乗員の士気に及ぼす影響を重視する余り、各級指揮官は搭乗員の戦果報告に対し、ほとんどそのまま報告していた。当時の海軍部第1部長中澤佑少将は、連合艦隊からの報告の3分の1を実際の戦果とみるよう部員を指導したという。実際には、ボーゲンビル沖航空戦において既に、台湾沖航空戦の場合と同様、実際の戦果は、連合艦隊の報告の10分の1程度であった。戦果の誤認は避けられないとしても、まさかこんなにひどいとは、当時は予想もできなかったと思われる。戦後、わが戦果の真相を初めて知って、当時の関係者はアッと息を呑んだのであった」(戦史叢書「海軍捷号作戦<1>要約」

 この戦果の判定はともかく、台湾沖航空戦におけるわが航空兵力の損耗は余りにも大きかった。
 対機動部隊中核兵力として、捷号作戦においてその活躍が最も期待されたT攻撃部隊は、10月12日から3日間の米機動部隊との戦闘で、その兵力の大部を失った。10月15日現在、同部隊の損耗は126機、搭乗員組数109組に達した。それでも、作戦可能な練度の搭乗員約80組がなお残っていたが、どんなに早くても10月末までは、戦力回復の見込みはなかった。

 その他、台湾の2航艦及び比島の1航艦に未帰還、自爆機数は2百数十機に達し、T攻撃部隊と合わせると、全損耗機数は400機前後になる。

 このため、比島配備の航空兵力は、10月18日現在の可動機数が、1航艦約35〜40機、陸軍の第4航空軍約70機しかなく、台湾に在る2航艦の可動機約230機を合わせても約340機に過ぎなかった。当時、海軍部で 胸算した捷1号決戦に使用可能な可動兵力の減少は、第1遊撃部隊(栗田艦隊)の作戦の成否に大きな影響を及ぼすことは必至であった。

 これに比し、「10月11日から16日にかけて、米空母艦載機は79機の損害を被ったのに対し、約500機の日本機を撃破した米機動部隊を指揮したハルゼー大将は、台湾沖航空戦で、レイテ島進攻前に極力多くの敵機を撃破し、航空優勢を確保するという主目標を達したのである」(「提督ニミッツ」)。

 一方、海軍部の戦勝ムードの敵情報告から、いまや情勢がわが方に有利に進展しているとみた大本営陸軍部では、比島地上決戦をルソン島に限定していた基本方針を急遽変更し、レイテ島において地上決戦を行うことを決定することになる。後日、悲惨な結果に終わったレイテ地上決戦は、台湾沖航空戦における過大な戦果判断の産物であったともいわれている。

比島沖海戦

(1)連合軍のレイテ来攻と捷1号作戦発動

 19年10月17日、連合軍攻略部隊の先頭は、レイテ湾入口の小島、スルアン島に上陸を開始した。比島現地部隊にとって、このスルアン島上陸の知らせは全く寝耳に水の事態であった。情報と索敵を軽視したわが海軍の欠陥がここにもあらわれている。

 連合艦隊司令部は、0835「捷1号作戦警戒」を発令して、比島決戦準備の措置を行った。

 翌18日、1732「捷1号作戦発動」を下令した。
(注)米機動部隊が台湾に来襲した10月12日朝「基地航空部隊捷1号及び捷2号作戦発動」が下令されたことは、既に述べた。今回の「捷1号作戦発動」は、水上部隊を含む全部隊に対して下令されたものである。

 19日、レイテ及び比島各航空基地に対する敵機動部隊の空襲は激しく、そのうえ、比島南部には敵基地航空部隊機による空襲が加えられた。この日、索敵機により敵機動部隊及び輸送船団を発見し、比島東方海面を行動中の敵機動部隊の全貌が判明した。

 この日の航空攻撃は、レイテ湾の敵艦船に対してのみ行われた。1航艦の爆戦4機、彗星1機と陸軍第2飛行団の5機から成る攻撃隊が出撃した。

 20日、1航艦は、爆戦3機がスルアン島東方の特空母群を攻撃し、また天山艦攻2機がレイテ湾の敵艦船を攻撃した。第2飛行団もその主力約20機で払暁攻撃を実施している。

 20日の朝、連合軍はレイテ島のタクロバン方面突入期日を10月25日と決定した。そして、基地航空部隊と機動部隊本隊は、その前日(24日)に敵機動部隊に対して航空総攻撃を実施することに定められた。

 台湾で足止めをくっていた豊田長官は、20日ようやく日吉台に帰着した。台湾沖航空戦の発生以来最も重要な時期に10日間も司令部を留守にしたため、捷1号作戦の決戦要領も、長官不在のまま、10月20日0813、発令された。要約すると、次のようなものになる。
(1)第1遊撃部隊の栗田艦隊(「大和、武蔵」を含む戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15)は、北方から25日(X日)黎明時「タクロバン」方面に突入、まず所在海上兵力を撃滅、次いで敵攻略部隊を殲滅する。
(2)第1遊撃部隊支隊の西村艦隊(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)と、第2遊撃部隊志摩艦隊(重巡2、軽巡1、駆逐艦4)は、南方から栗田艦隊と同時に「タクロバン」方面に突入する。
(3)機動部隊本隊の小澤艦隊(空母4、航空戦艦2、軽巡3、駆逐艦8)は、囮となって敵機動部隊を北方に牽制し、栗田艦隊の「タクロバン」方面突入を容易にする。
(4)基地航空部隊は全力を比島に集中し、X日の前日(Y日)を期して、敵航空部隊を徹底的に撃滅する。

 大本営陸軍部には、海軍は無理な戦をせず、艦隊兵力を温存するよう希望があった。しかし、海軍中央部は、敵の制空権下におけるフリート・ビーイングの温存主義を断固として排し、敢えて決戦の外なしと決断し、海軍の全力を挙げて出陣させたのである。

(2)基地航空兵力の現状と特別攻撃隊編成

 比島に配備された1航艦(第5基地航空部隊)は、10月17日以来わずかな兵力で細々と反撃並びに索敵を続けてきたが、20日現在の可動兵力は戦闘機24、攻撃機15、偵察機1計40機に過ぎなかった。

 20日、1航艦寺岡長官は、大西瀧治郎中将と交代した。大西中将は航空生え抜きの出身で、海軍航空の中心的人物である。ソロモン方面の航空消耗戦で航空兵力をすり潰し、航空戦力はガタ落ちになった。そして、戦局は急速に悪化し最後の段階に追いつめられた時、大西中将は、前配置の軍需省で「もう体当たりでなければいけない」と周囲の者に話している。

 大西中将は、比島に向かうため東京を出発するに先立ち、及川軍令部総長に対し、航空機による体当たり攻撃の決意を上申した。及川総長は大西中将に対し、「命令で体当たりをやることはしないよう」との見解を伝えた。

 大西中将は豊田大将一行と共に、新竹上空における零戦とF6Fの空中戦を見守りつつ、豊田大将にも自己の考えを述べている。
「とてもいままでのやり方ではいけない。戦争初期のような練度の者ならよいが、なかには実用機の単独飛行がやっとという搭乗員が沢山いる。こういう者が雷爆撃をやってもただ被害が多いだけで、成果はあげられない。体当たり以外に方法はないと思う。しかし上級者の強制命令でやれと言うことはできぬ。そういう空気にならなければ実行できない」

 大西中将は差し迫っている第1遊撃部隊の突入に、一時的にも敵空母の活動を封止するためには、もはや体当たり攻撃を発動する時期であると判断した。着任前日夕刻、201空基地を訪れ、神風特別攻撃隊編成の意思を表明した。関行男大尉を長とする24名をもって4隊の特別攻撃隊がマバラカット基地で編成されたのは、20日午前1時である。

 特別攻撃隊は21日以降、連日にわたり敵機動部隊を索めて出撃したが、Y日(24日)までは、目指す敵機動部隊を発見できなかった。この間、21日レイテ東方の敵空母攻撃に向かった久納好孚中尉が最初の未帰還となっている。

 一方、台湾にあった2航艦の兵力は、19日現在、戦闘機303、攻撃機85、偵察機7計395機、うち可動機は223機である。福留長官は主力を率いて22日夕刻マニラに進出した。こうして、Y日の前日23日現在、比島に増勢された2航艦の可動兵力は戦闘機126、攻撃機70計196機であった。

 なお、総攻撃開始日(24日)までに集中可能と見込まれた航空兵力は、2航艦322機、3・4航戦73機、T部隊100機、3航艦70機、1航艦50機、機動部隊本隊116機、合計731機で、うち可動兵力はその3分の2程度と見込まれていた。また、陸軍機は戦闘機320、爆撃機272、偵察機24、ほかに100計716機である。
(注)3.4航戦の飛行隊は台湾沖航空戦において基地作戦に転用されてしまった。従って、急遽、空母に搭載されることになった飛行機隊116機は、1部1航戦のもののほか3航戦と4航戦の基地未転出のものである。

(3)作戦の経過

 第1遊撃部隊主体の栗田艦隊は10月22日ブルネイを出撃して、レイテに向かった。その翌朝、米潜水艦の雷撃により、旗艦「愛宕」と「摩耶」は沈没、「高雄」は引き返し、栗太長官は将旗を「大和」に移した。

 この23日、2航艦は予定通り攻撃(160機)を開始したが、天候不良のため進撃を断念した。肝心の敵機動部隊の動静は、20日以来天候不良のため全く不明になっていた。

栗田艦隊シブヤン海で苦戦 10月24日シブヤン海に入った栗田艦隊は、1026から5時間、艦上機総計259機の5回にわたる執拗な空襲を受けた。その攻撃は被弾により低速となった「武蔵」に集中したため、1953沈没した。
栗田長官には、自隊だけが敵機動部隊の攻撃を一手に引き受けているかに思われた。

 無理な突入は成算なしと感じた栗田長官は、1530進路290度に反転した。ちょうど敵機も攻撃を終り、帰投している頃であった。30分後の1600に発信されたこの反転の報告は、大本営海軍部や連合艦隊司令部に予期せぬ衝撃を与えた。

 豊田長官が1813に発令した次の電文が、1855「大和」に着電した。

「天佑を確信し、全軍突撃せよ」
 この激励電が着電する前1714、栗田長官は突如再反転し、予定のコースに復帰していた。栗田艦隊のレイテ湾突入は、この反転と先の戦闘とによって6時間の遅れを生じ、25日1100に変更された。

2航艦の米機動部隊総攻撃 この日24日は航空総攻撃のY日であった。24日未明、中央の索敵線を飛んだ索敵機は、機上レーダーによりマニラの90度250カイリに敵大部隊を探知し、打電後消息を絶った。福留中将はこの敵に総攻撃をかけた。

 月光、銀河、陸攻の索敵機、天山艦攻及び瑞雲水爆の黎明攻撃隊に続いて、第1次攻撃集団が0630から0700にかけて、クラーク地区の各飛行場から出撃した。

 第1攻撃集団の攻撃兵力の主力は99艦爆36機と爆装零戦6機(212空)から成り、その制空隊として零戦54機(252空26、221空28)、紫電21機(341空)を252空飛行隊長小林實少佐が、艦爆隊の援護隊として零戦51機(203空、653空、634空)を203空飛行隊長鴛淵孝大尉が率いていた。

 彗星隊12機は、単機奇襲攻撃を狙って、主力とは別行動をとり、単機毎に逐次発進した。

 これら第1攻撃集団とは別に、天山隊11機が遅れて0830に発進している。

 この日、マニラ上空は好天気であったが、戦場付近は大空の大半が雲におおわれて、スコール雲が低く垂れ下がり、視界は悪かった。170機に及ぶ大兵力が集団攻撃を行うのには、不向きの気象状況である。

 進撃中の隊形は、艦爆隊をなかにはさんでその前後に制空隊と援護隊がいた。援護隊は指揮官機がエンジン不調で後方に遅れていた。ポリロ島の南端にさしかかった頃、艦爆隊は北東に進路を転じた。

 ところが、艦爆隊の後方を進撃中の援護隊は、そのまま直進し、制空隊の後方を進む恰好となった。

 こうして一団となって進撃するはずの第1攻撃集団は、各隊連携を欠いたまま離れ離れの位置で、F6F敵戦闘機群に襲われた。

 小林少佐の率いる制空隊252空零戦26機はマニラの90度150カイリ付近で、援護隊零戦51機はマニラの75度140カイリ付近で、F6F各50機とそれぞれ空中戦に入り苦戦した。この戦闘で、制空隊は7機(うち不確実1)の撃墜を報じたが、小林少佐を含む11機が未帰還となった。援護隊は11機の撃墜を報じたが、味方機4機を失っている。

 艦爆隊はF6F約100機に遭遇し、被害が続出し、攻撃を取り止めてバラバラになり基地に辿りついた。

 これと前後して、天山隊(11機)もまた、その進撃途上F6F数十機と遭遇し、進撃を阻止されている。

 その頃、敵空母を捕捉し、これに必殺の一撃を加えていた隊があった。それは、主力とは別行動をとった彗星隊である。

 12機の彗星隊の1部は0930頃マニラの70度140カイリ付近の敵空母群に攻撃を加えた。戦果は空母に直撃弾1、巡洋艦1隻撃破と報ぜられた。

 米側資料によれば、この付近に行動していた米空母部隊は、シャーマン隊(正規空母2隻、軽空母2隻基幹)だけである。0938、彗星1機の250キロ爆弾は軽空母「プリンストン」の飛行甲板中部に命中し、その彗星は撃墜された。爆弾は格納甲板と中甲板の間で炸裂、たちまち火災を起し、その後、味方艦の魚雷で処分された。この救援のため近接中巻き添えを食った軽巡「バーミンガム」は、乗員650名が死傷し、戦列を離れている。

 彗星隊は5機未帰還となった。

 前年夏に米太平洋艦隊が高速空母機動部隊を編成して以来、日本海軍航空部隊が実際に空母を沈めたのは、この「プリンストン」が初めてである。

 第1攻撃集団の彗星隊の「空母1隻直撃、巡洋艦1隻中波炎上」の戦果報告だけを昼前に手にしたマニラの2航艦司令部は、全般の戦果や被害が判明せず、焦燥の念にかられていた。

 彗星4機が1152マバラカット基地から単機毎に出撃し、午後さらに彗星10機出撃したが、いずれも成果はなかった。

 一方、第1次攻撃で敵空母の捕捉に失敗した第1次攻撃集団主力は、午後再び出撃した。零戦22機(指揮官鴛淵大尉)、99艦爆25機で再編成され、ラモン湾東方の敵機動部隊を目指して、クラーク各基地から発進した。

 攻撃隊は基地から80カイリ進撃しただけで、ラモン湾上空の厚い雲の壁に阻まれ、再び攻撃を断念せざるを得なかった。

 こうして、福留長官の念願した編隊集団攻撃は、またもや失敗に終わった。

 敵機動部隊の攻撃から栗田艦隊を援護するため、朝以来マニラ東方の敵空母部隊に対し全力攻撃を指向していた福留長官が、味方艦隊に対し攻撃を加えていると思われる他の敵の存在に明確に気付いたのは、レガスピー東方の敵情を入手した時である。

 1270発信で基地(基地名不詳)から中継されてきた電報が福留長官の司令部に着電したのは、1500頃と推定される。それは「0945敵大部隊、空母3隻、戦艦3隻、レガスピーの72度100カイリ付近、針路90度速力22ノット1207」と、極めて重要な敵情を告げている。

 米側資料によれば、この敵大部隊は一方的に栗田艦隊を攻撃していたボーガン隊(正規空母3、軽空母1、戦艦3、軽巡・駆逐艦22計22隻)である。
 この重要な報告が、何らかの理由により基地経由で六時間もかかって、やっと二航艦司令部に着電したのである。
 ラモン湾東方の敵空母群の存在を知った福留長官は、まったくの窮地に立たされた。
 薄暮、夜間攻撃隊はクラーク基地から出撃した。
 天山攻撃隊九機は、直前偵察任務の天山三機が一六一五に、雷撃機六機が一六四五に発信した。雷撃機は、天候不良で敵を発見し得ず、魚雷を登記して帰途についた。
 ボーガン対を目指す一式陸功隊は的を発見することができなかった。
 銀河隊はルソン島請願を南下中、突如F6F群の襲撃を受け、指揮官機は不時着、他の七機は未帰還、全機を失っている。
 夜間攻撃もまた失敗に終わった。こうして、二航艦のY日(二十四日)の総攻撃は失敗し、二十五日の栗田艦隊の突入を容易にするという目的を達成できなかった。

小澤艦隊の航空攻撃 二十四日は、機動部隊本体の小澤艦隊による航空総攻撃も企てらていた。
 小澤長官は、これまで数次にわたる敵潜水艦との遭遇から、二十四日には必ず航空戦が起こると予想していた。小澤艦隊は空母四隻を持っていたが、搭載機はわずか116機(零戦五二、爆装零戦二八、天山二五、九六式艦攻四、彗星七)に過ぎなかった。
 総長から二〇機の索敵機を出し、一一二五本体の南西約一八〇カイリに的起動舞台を発見した。まさに絶好の攻撃距離にあった。
 一一四五攻撃隊を発信させた。攻撃隊の総兵力は、計画の零戦四〇、爆戦二八、二式艦偵二、天山六計七六機が、八艦取止め又は引き返し等の理由のため、五七機に減少している。
 攻撃隊は、「瑞鳳、千歳、千代田」から発進のもの(以下"瑞鳳らの隊"と呼ぶ)と、「瑞鶴」から発進のもの(以下"瑞鶴隊"と呼ぶ)との二コ集団に分かれた。
 直掩隊指揮官飛行隊長中川健二大尉の率いる瑞鳳らの隊(零戦二〇、爆戦九、天山四計三三機)は、一三〇五、F6F約二〇帰途遭遇した。敵は空母から四五カイリ雲の手前で待ち受けていた。直掩、制空の冷戦がまずF6F群に突入した。壮絶な空戦が二〇分続けられ、撃隊八機が報ぜられている。
 この間、爆線隊は敵空母を索めて捜索したが、発見することができず、攻撃隊の大部は北部ルソンの基地に向かった。 空母に帰投したのは零戦、爆戦、天山各一機計三機だけである。
 この攻撃で零戦六、爆戦一、天山二機が未帰還となった。なお、空母に帰投した唯一機の零戦大藤三男大尉は、上空直衛に飛び立ち、再び帰らなかった。
 瑞鶴隊(零戦一〇、爆戦一一、天山一、二式艦偵二計二四機)もF6F群の激激に遭った。飛行分隊長中島玳大尉の指揮する零戦隊がF6F群と空戦している間、爆戦隊は進撃した。天山がマニラの当方170カイリ付近に、正規空母二、軽空母二を基幹とする空母部隊を発見した。爆戦隊は直ちに雲の付記間から空母めがけて急降下爆撃に入った。正規空母一隻に2発、他の空母に一発の命中が認められ、戦果確認機は一隻轟沈、一隻撃沈と報告した。米側資料によれば、この空母部隊はシャーマン隊で米空母に損害はなかった。
 攻撃後、空母に帰投したものは一機もなく、爆戦体の一機は高雅に,攻撃隊の大部は"瑞鳳らの隊"と同時刻に、アパリとツゲガラオに帰投している。
 空中戦における戦果は撃退一機、未帰還機は零戦2、爆戦5、天山1計八機である。

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