第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘



第四節 米軍の反攻と制空権の推移

1、ミッドウェー海戦、アリューシャン攻略戦

 米空母の機動空襲戦 米国は日米開戦のとき七隻の正規空母を保有しており、そのうち太平洋方面に配備されていた「レキシントン、エンタープライズ、サラトガ」は、開戦劈頭日本海軍のハワイ奇襲時には、在泊していなかったので、無傷で生き残った。その上、損害を受けた巡洋艦と駆逐艦が少なかったので、高速空母攻撃部隊を編成することができた。
 真珠湾惨敗の直後、空母「ヨークタウン」は大西洋から太平洋に進出を命ぜられた。これで、米国の太平洋における空母は四隻となった。
 ニミッツ太平洋艦隊司令長官は、日本軍の占領地域の最先端にヒット・エンド・ランの空母機動空襲戦をかけて、日本の進攻を牽制する作戦方針を採った。
 十七年二月一日、フレッチャー少将指揮のヨークタウン隊がギルバート諸島北部のマキンとマーシャル諸島のヤルート、ミレを空襲した。ウイリアム・F・ハルゼー中将のエンタープライズ隊は、同じ日、さらにマーシャル諸島に進入して、ウォツゼ、マロエラップ、クェゼリンを攻撃した。このエンタープライズ隊に対して、ルオットの千歳空戦闘機隊九六戦一〇機が邀撃し、五機を撃墜、タロアの千歳空派遣隊の九六銭一一機が延一九機邀撃し、一二機(うち不確実三)を撃墜したと報じた。わが方の戦闘機隊の被害は、タロア派遣隊長(分隊長倉兼義男大尉)機が被弾大破し、落下傘降下したほか、被弾一発の一機だけである。
 ラバウルからトラックに帰投したばかりの南雲機動部隊は、米艦隊を追いかけたが、空振りに終わった。米艦隊による損害、特にクェゼリンの被害が甚大であったので、五航戦(「瑞鶴、翔鶴」)は、日本勢力圏の海域の防衛哨戒のためにくぎづけされることになった。
 ブラウン中将指揮の「レキシントン」が、二月二十一日ラバウルを奇襲しようとしたが、前日わが大艇に発見され、わが一式陸攻隊一七機の攻撃を受けたので、空襲を断念して引返した。この時、陸攻隊は、ラバウルから四六〇カイリ離れていたため、増槽タンク未到着の零戦隊の掩護を受けることができなかった。このため、一三機がF4Fのために撃墜され、二機が不時着し、無事帰還したのは二機だけという悲劇を生んでいる。
 ハルゼー中将のエンタープライズ隊は、二月二十四日にはウェーク島、次いで三月四日には東京から一、〇〇〇カイリ足らずの南鳥島を攻撃した。
 ブラウン中将指揮のレキシントン隊・ヨークタウン隊は、三月十日オーウェン・スタンレー山脈を越えて、ニューギニア北東部のラエ、サラモアの奇襲に成功した。
 日本海軍が空母を有効に活用しなかった時期に、米空母部隊は巧妙に機動奇襲し、わが機動部隊を振り廻している。

 第二段作戦への移行とミッドウェー作戦の決定 山本連合艦隊司令長官は、早期戦争集結を目指して、米・英両国に対して積極的な一連の作戦構想を抱いていた。太平洋方面ではハワイを攻略して米艦隊を撃滅し、印度洋方面ではセイロン島を攻略して出撃してくる英艦隊を撃滅するというものである。
 米空母の機動空襲戦に悩まされると、山本長官は、ハワイ攻略の準備としてまずミッドウェーを攻略し、米機動部隊を誘出し、これを撃滅しようとした。
 しかし、軍令部は最初は、ミッドウェーがハワイに近いので危険な作戦となり、また米空母部隊を誘出できないおそれがあり、占領後の補給と防衛が困難であるという理由で、ミッドウェー作戦案に反対した。
 軍令部が考えていた作戦案は、堅実な長期不敗態勢を図るために、サモア、フィジー両諸島とニューカレドニア島を攻略確保して、米豪間の海上交通及び航空路を遮断することであった(FS作戦)。
 山本大将の発言力は強大で、四月五日軍令部はミッドウェー作戦案を承認した。
 なお、この時、軍令部はアリューシャン西部要地を攻略すること(米航空基地の西進阻止と北方進攻路の警戒のため)を提案し、連合艦隊司令部も直ちにこれに同意している。

 ドゥーリトルの東京空襲 十七年四月十八日正午過ぎ、陸軍中佐ドゥーリトルを隊長とする陸軍中型爆撃機B25一六機が、東京、横浜、名古屋、神戸を急襲した。
 計画では、B25一六機を搭載した空母「ホーネット」が、ハルゼー中将の指揮するエンタープライズ隊と共に、四月十八日の夜、日本本土の東方五〇〇カイリの地点から発艦する予定であった。しかし、その日の朝、日本の監視艇に発見されたので、予定を早めて午前中に本土の六五〇カイリの地点から攻撃隊が発艦した。

B25ミッチェル

 日本側は、監視艇の報告により米空母の接近を知っていたが、まさか陸軍機が空母から発艦するとは思わないので、距離の関係から、艦上機による本土空襲は翌朝になると判断していた。わが方は被害こそ少なかったが、不意をつかれたので、邀撃することさえもできなかった。B25はわが国にレーダーのあることを恐れて、目標まで超低空飛行を続けている。
 攻撃隊の着陸地は中国本土の飛行場であったが、夜間の到着になったため、大部のB25は不時着した。発艦した八〇名の搭乗員のうち、生存したのは七一名である。
 東京空襲の物質的損害は小さかったが、日米両国に与えた精神的影響は大きかった。
 当初ミッドウェー作戦に強く反対していた大本営海軍部第一課は、ミッドウェー作戦の実施に積極的になり、陸軍部も、東京空襲直後、本作戦に陸軍兵力を派遣することを決定した。

 《珊瑚海海戦》
 大本営海軍部は、豪州方面への航空戦を躍進させるために、ラエ、サラモア攻略、機を見てツラギを、なしうればポートモレスビーを攻略するよう、十七年一月末に連合艦隊に指示した。この作戦は、南洋部隊指揮官(四艦隊長官)井上成美中将が指揮することになった。
 ラバウル攻略戦後編成された四空戦闘機隊は、スルミを中継基地として、陸攻隊のモレスビー攻撃を掩護した。三月にラエを占領したあとは、ここを中継基地としてモレスビー攻撃を実施するのが例になった。四月には、台南空が転進して、四空戦闘機隊を合併し、この方面の戦闘を受け持っている。
 四月上旬印度洋作戦が終了したので、中旬五航戦と五戦隊を中心に一コ機動部隊が編成され、その他に六戦隊が加わり、井上中将の指揮下に入り、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)が開始された。その兵力は、空母二、改装空母一、重巡六、軽巡三、駆逐艦一五、小艦艇多数で、基地設営隊を分乗させた輸送船一二隻を随伴している。
 これに対し、日本海軍の暗号を解読し、日本側の計画について詳細な情報を得ていたニミッツ提督は、「レキシントン」(戦闘機二一、急降下爆撃機三八、雷撃機一二)「ヨークタウン」(戦闘機二一、急降下爆撃機三八、雷撃機一三)の二空母を基幹とするフレッチャー少将指揮の機動部隊を、五月一日珊瑚海の南東海面に終結させていた。
 五月三日ツラギ攻略は計画通り成功したが、翌四日、米空母機の奇襲により、同地にあったわが小艦艇に相当の被害があった。
 五月七日朝、珊瑚海の上空は、両軍の索敵機が入り乱れていた。
 両軍の接触及び戦闘はほぼ同時に起こった。
 わが機動部隊は、索敵機の「敵機動部隊」(空母一、巡洋艦一、駆逐艦三)の発見の報により、「瑞鶴、翔鶴」から零戦一八(指揮官岡嶋清熊大尉)、艦爆三六、艦攻二四(雷装)計七八機の高橋赫一少佐指揮の攻撃隊を発進させた。この攻撃隊は、索敵機が空母と誤認した油槽艦と駆逐艦各一隻を撃沈して空しく帰投している。
 米側も、「空母二、重巡二」(実際は巡洋艦二、駆逐艦二と報告するつもりが、暗号の作成誤りでこうなった)の発見報告により、二隻の空母から九三機の攻撃隊を発進させた。日米両軍いずれも誤認目標に向けて攻撃隊を発進させたが、米側の方が少し幸運であった。最初の目標の南東方わずか三五カイリに日本の改装空母一隻(「祥鳳」)を発見し、これをたちまち撃沈した。「祥鳳」の戦闘機六機(九六戦三機、納富健次郎大尉の零戦三機)は多数の敵機と交戦して、その五機(うち不確実一)の撃墜を報じたが、戦闘終了後三機が不時着し、他の三機が未基幹となっている。
 ラバウル基地航空部隊の雷装一式陸攻一二機、爆装九六式陸攻一九機、零戦一二機(指揮官台南空飛行隊長中島正少佐)が巡洋艦及び駆逐艦計六隻から成る支援隊を攻撃した。まず雷撃隊が敵を発見、猛烈な対空砲火の反撃の中を、銃撃した。陸攻隊の雷爆撃によって、戦艦一及び重巡一を撃沈、他の戦艦に魚雷二本以上命中、大なる損害を与えたことを報告した。わが方も、雷撃隊一二機中四機自爆、一機不時着大破、二機が被弾のため着陸時大破したほか、三機被弾という大きな損害を受けた。爆撃隊も三機被弾した。米側資料によれば、米側は雷撃、爆撃のいずれからも被害を受けていない。
 当時一、二航戦の練度に達しなかったとはいえ、敵空母群に一矢も報ゆることができなかった昼間攻撃の失敗に奮起した五航戦司令官原忠一少将は、夜間の攻撃に使用できる技量優秀な搭乗員を選抜した。状況によってはこれを捨てる覚悟で、二隻の空母から、索敵機八機に続いて、日没の二時間前一四一五艦攻一五機、艦爆一二機を発進させた。
 推定三〇〇カイリに及ぶ遠距離を、攻撃隊は悪天候をついて進撃した。実際には、敵空母の位置はそれほど遠くなかった。進撃中のわが攻撃隊は、一六三〇頃突如「ヨークタウン」の上空直衛機F4Fの攻撃を受けた。空戦は一五分間続いた。この空戦で、「瑞鶴」の艦攻五、「翔鶴」艦攻三計八機が被弾自爆している。
 この戦闘で攻撃隊はバラバラになり、攻撃の機会を失ってしまった。
 その後残った艦攻隊は魚雷を捨てて帰途についた。艦爆隊も爆弾を投棄して帰投中、一六四五断雲の間に敵空母を発見したが、どうすることもできなかった。艦爆隊の一部は、見方と誤認して「ヨークタウン」に着艦しようとしたが、射撃を受けてはじめて敵であることに気付いて退避した。この頃艦爆隊は再び敵戦闘機と空戦し、艦爆一機が自爆した。最後に「翔鶴」の艦攻一機が未帰還となった。
 攻撃隊は暗夜の中を帰投した。収容された攻撃隊は、艦攻六、艦爆一一計一七機である。艦攻九組、艦爆一組のベテラン搭乗員を失ったわけである。
 翌五月八日朝、日米両機動部隊はほとんど同時に、相手を発見し、同時刻に航空攻撃をかけることになった。いずれも空母二隻を持ち、日米最初の空母同士の壮烈な戦闘が展開されることになった。
 原少将は攻撃隊の機数を増やすため、索敵機は艦攻五機しか発進させることができなかった。フレッチャー少将は日本空母群の所在をつきとめるのが最大関心事であったため、「レキシントン」から索敵機一八機を発進させている。
 〇六二二索敵機(「翔鶴」艦攻、機長菅野兼蔵飛曹長)の敵空母部隊発見の報告により、〇七一五零戦一八(指揮官帆足工大尉)、艦爆三三、艦攻一八計六九機が、翔鶴飛行隊長高橋少佐の指揮の元に勇躍発進した。
 先の索敵機菅野機は、一二通の適切な電報を発信し、帰途攻撃隊と会合し、燃料切れになるのを覚悟のうえ、これを敵上空まで誘導したのち、遂に帰らなかった。
 〇八五五、「レキシントン」のレーダーが、北東約七〇カイリの地点で、わが攻撃隊を捕らえた。艦上で待機していたF4Fはあわてて発進している。
 攻撃隊は、晴れた大空の下に船体を浮き彫りにした米空母群を発見し、〇九一〇全軍突入した。
 敵の直衛機は、輪形陣の外側上空に待ち構えていて、まず艦攻隊を襲ってきたが、直掩の零戦一八機が圧倒的な強さを発揮し、次々と撃墜し、その数は二九機と報告されている。
 米側資料によれば、米空母の損害は次のとおりである。

レキシントン 爆弾命中二発、至近弾数発、魚雷命中二本
ヨークタウン 爆弾命中一発、至近弾二発、魚雷命中なし

 この攻撃で、艦攻二機は被弾、敵艦に突入自爆した。
 各攻撃隊は〇九五五過ぎに集合し帰途についたが、零戦隊の掩護を受けなかった艦攻四機、艦爆七機が撃墜された。攻撃隊指揮官高橋少佐は未帰還となっている。
 大損傷を受けたとは見えなかった「レキシントン」は、その日の午後、発電機のスパークが破損したガソリン管から漏れるガソリンに引火し、二度にわたって爆発し、夕刻味方駆逐艦によって処分されている。
 わが五航戦は、空母二隻とも撃沈したと思っていた。
 一方、米側は、索敵機の一機が〇六二二日本艦隊発見を報じた。日本の機動部隊から一六五カイリ離れた地点から、米攻撃隊は〇七一五発進した。その兵力は次のとおりである。
レキシントン 爆撃機二二、雷撃機一二、戦闘機九 計四三機
ヨークタウン 爆撃機二四、雷撃機九、戦闘機六 計三九機
合計八二機

 両艦の攻撃隊は合同して進撃したが、その途中天候が不良となったため、分離してしまった。北上するに従い、日本艦隊の付近は不連続線の影響で雲が多く、スコールが時々あった。昨七日は米軍に味方した天候は、本日は日本軍に味方することになった。
 「ヨークタウン」の攻撃隊三九機は、〇八三〇日本艦隊を発見した。高度約六、〇〇〇メートルまで上昇して接敵した米爆撃隊が、雲中に隠れて、低空にいる速力の遅いTBDデバステーター雷撃機を待っている間、「翔鶴、瑞鶴」は直衛の零戦を発進させた。そのうち、「瑞鶴」とその随伴艦はスコールの中に入って見えなくなった。
 〇八七五「ヨークタウン」の攻撃隊は、雲間に姿の見えている「翔鶴」に殺到した。
 わが上空直衛機の発進が終わらないうちに、母艦が対空戦闘を始めたために、発艦を中止したものもあった。
 「レキシントン」攻撃隊四三機のうち、多くの急降下爆撃機は目標を発見できなかった。〇九四〇頃雷撃機一一機、急降下爆撃機四機、戦闘機六機がようやく日本艦隊を発見し、「翔鶴」に対して攻撃を開始した。
 わが上空直衛の零戦は、天候不良のなかで急速発進したり、至近距離でしか敵機を発見することができない等の悪条件にもかかわらず、善戦して敵機四〇機(うち不確実七)の撃墜を報じている。わが機動部隊の隊形は縦長で疎散に過ぎたため、緊密な協同連携を欠き、全砲火の集中威力を発揮できなかったが、水上艦艇の砲火によって三二機(うち不確実一五)の撃墜が報ぜられた。
 米側資料によれば、この日の全戦闘で三三機を失ったと述べている。ただし、「レキシントン」沈没による三六機喪失は含まない。
 さてこの間、敵の攻撃を一手に引受けることになった「翔鶴」には、爆弾三発が命中した。しかし、魚雷は一本も命中していない。
 このため「翔鶴」は着艦不能となった。人員の被害は戦死一○九名、重軽傷一一四名にも及んでいる。
 一一〇〇過ぎ、攻撃隊が帰投してきた。「翔鶴」に零戦一機と艦爆一機が着艦を強行した。零戦三機、艦爆四機、艦攻一機が次々と不時着水し、艦爆一機がタグラ島に不時着したが、これらの搭乗員は皆救助されている。
 結局、「瑞鶴」に収容した飛行機は、瑞鶴機三四、翔鶴機二二計五六機である。「瑞鶴」に着艦収容した飛行機の中で、被弾等のため修理不能で海中に投棄された機体は、一二機にものぼった。
 南洋部隊指揮官井上中将は、五航戦の使用可能機、特に攻撃用の艦攻、艦爆の機数が激減したので追撃を断念し、さらに艦船燃料に不安があり、攻略部隊を援護する航空兵力もなくなったので、八日一四二〇攻略作戦中止を下令した。
 連合艦隊は、井上中将の措置に不満があったが、作戦中止のやむを得ないことを認め、戦機は去ったと判断し、十日一三三〇、MO作戦の延期を発令した。
 戦果は米空母二隻撃沈等と報ぜられたが、十日米空母機を洋上で発見したので、米空母一隻がなお残存しているものと判断された。
 こうして珊瑚海海戦は終わった。日米ともに自国の大勝利として発表し、両国民ともに歓喜した。特に、ポートモレスビー攻略作戦を阻止した米海軍は、開戦以来はじめて日本軍の前進を食い止めたことを戦略的勝利とし、大いにこれを内外に宣伝した。
 ニミッツ提督は「ニミッツの太平洋海戦史」で次のように論評している。
 「戦術的に見るならば、珊瑚海海戦は日本側にわずかに勝利の分があった。(中略)しかし、lこれを戦略的に見れば、米国は勝利を収めた。開戦以来、日本の膨張は初めて抑えられた。ポートモレスビー攻略部隊は、目的に到着しないで引揚げなければならなかった」

 開戦以来零戦と米海軍戦闘機の代表というべきF4Fとの対決は、ウェーク島の攻防戦で初めて行われたが、F4Fの機数、搭乗員の練度からみて、零戦が大勝利を占めたのは当然である。本海戦では、敵味方同数の空母数であり、二隻の米空母には零戦に対抗するには十分な数のF4Fが、本格的に零戦に挑戦した。F4Fははるかに優れた高練度の日本搭乗員が操縦する零戦の単機旋回戦闘に巻き込まれて、墜とされていった。F4Fの空戦性能は零戦に比べて劣弱であることが立証された。また、雷撃機、急降下爆撃機も旧式であり、特に雷撃機と航空魚雷の性能は劣悪であった。米海軍は、搭載機全機種の性能向上と搭乗員の強化訓練の必要性を痛感し、これらの実現化を急ぐことになった。
 わが方の損害は、「祥鳳」が沈没、「翔鶴」が修理に三ヵ月を要する損傷のほか、飛行機約一〇〇機(「祥鳳」の分を含む)を失った。搭乗員の戦死者は、「瑞鶴」の約四〇%、「翔鶴」の約三〇%という多数に及んだ。母艦搭乗員の不足は、極めて深刻な問題であり、海軍中央部に大きな衝撃を与えることになった。
 当時、零戦のほかは艦上機の生産を抑えなければならない貧弱な生産状況にあったので、この海戦で艦上機約一〇〇機も失ったのは、ベテラン搭乗員の損失とともに重大な問題であった。五航戦を再建して一応作戦可能の戦力に達するのには約三ヵ月が見込まれた。しかも、三ヵ月の間に、搭乗員が今までの練度に達することは全く望み得なかった。従って、五航戦はミッドウェー作戦に使用することができなくなった。しかしながら、このことが同作戦の勝敗に甚大な影響を及ぼすと考えたものは少なかった。
 また、この海戦は、米国の著名な戦史家モリソン氏が指摘するように、日米双方とも錯誤の連続であって、多くの戦訓が含まれているが、楽観的気分が台頭していた当時のわが海軍では、反省の材料にはならなかった。

 《ミッドウェー海戦》
 本作戦には連合艦隊の決戦兵力のほとんどが動員されることになった。
 ミッドウェー作戦の目的は、
 「ミッドウェー島を攻略し、同方面よりする敵国艦隊の機動を封止し、兼ねてわが作戦基地を推進するにある」というものである。
 山本長官が主目的としていた米機動部隊の誘出、捕捉撃滅については、作戦要領の最後に「海軍は有力なる部隊を以て攻略作戦を支援掩護すると共に、反撃のため出撃してくることあるべき敵艦隊を捕捉撃滅する」の一項があるだけであった。
 実施部隊の一航艦及び第二艦隊の司令部は、ミッドウェー作戦の主目的は、同島の攻略であると強い先入観を持っていた。山本長官の意図は徹底していなかった。
 このように、ミッドウェー海戦の大悲劇は、”作戦の主目的の混迷”から始まる。
 攻略作戦中敵空母の出現に備えるよう第一機動部隊(南雲艦隊)を指導していた連合艦隊司令部も、敵空母出現の可能性は少ないと判断していたとみられる。この判断は、本作戦を敗戦に導く大きな要因となるので、その根拠となる米空母の動きを追うことにする。
 十七年一月一二日、日本の伊号第六潜水艦がオアフ島の南西五〇〇カイリの地点で、雷撃によって「サラトガ」に五ヵ月の修理を要する損傷を与えた。この時潜水艦長は撃沈と報告し、海軍中央部も撃沈は確実と考えていた。結局、「サラトガ」はミッドウェー海戦には間に合わなかったが、「サラトガ」の飛行機隊の多くは「ヨークタウン」に搭載されることになる。
 五月八日の珊瑚海海戦で、日本海軍は「レキシントン」を撃沈し、「ヨークタウン」に修理三ヵ月を要する損傷を与えている。
 五月一五日ツラギを発進したわが飛行艇は、マーシャル諸島南方で西航する正規空母二隻を発見した。これは、ハルゼー中将の指揮する「エンタープライズ」と「ホーネット」である。
 これらの情報から、連合艦隊は、残存空母は全部南太平洋にある公算が大きいと見た。従って、ミッドウェーを攻略しても、米空母部隊は反撃に間に合わず、ミッドウェー方面に出現しないのではないかと思った。南雲部隊が米空母の不意出現にあわてた要因の一つである。
 ドゥーリトル東京空襲があったので、敵機動部隊を一日も早く叩く必要に迫られた。ミッドウェー攻略期日は、上陸作戦のための最適の月齢、アリューシャン方面の霧等の最適の気象によって六月七日に決定されていた。
 南方作戦から帰った各部隊は、疲れをいやす暇もなかった。作戦準備不足、ことに要員の補充交代後の訓練不足から、第二艦隊と一航艦から作戦延期の強い要望があったが、連合艦隊司令部はこれを許さなかった。
 第一機動部隊の飛行機隊は搭乗員の補充交代を完了したばかりで、その訓練内容は基礎訓練の域を脱することができなかった。
 戦闘機隊の訓練は、単機射撃と単機空戦を実施しただけで、編隊空戦は一部の熟練者だけにとどまり、それも三機編隊戦闘程度までである。他機種もハワイ作戦出撃前のような練度にはほど遠く、戦力の低下は目に見えていた。
 水上艦艇も、個艦の基礎訓練さえ十分にできず、不安を残して出撃せざるを得なかった。
 機動部隊の総合練度は、ハワイ作戦に臨んだ時とは相当な差がある。
 「主力空母戦隊のうち一、二航戦に比べて、格段と技量が劣っているとみられていた五航戦が、珊瑚海海戦で大勝利を報じた。一航艦の自己の戦力に対する自負は、うぬぼれにまで発展していたといえよう」
 と戦史叢書「ミッドウェー海戦」は述べている。
 この空母戦力への過信は、一航艦にだけでなく、海軍全般にも流れ、作戦にも慎重さを欠く雰囲気になっていった。
 緊張感の欠如は、関係者の機密保持に対する心構えに緩みを生ずることになった。既に、ミッドウェー攻略の噂は、海軍部内だけではなく民間にも流れていた。
 ここで、作戦遂行上重要な鍵となる情報不足(というより欠如)についてふれてみることにする。
 わが海軍では、情報入手のために、二つの偵察、監視計画をたてていた。
 一つは、二式大艇で真珠湾を偵察し、米空母の存在を確認するK作戦で、これは、中継地点フレンチゲート礁に敵水上艦艇や飛行艇がいたために、燃料補給ができなくて中止した。また、ハワイとミッドウェーの中間海域に一一隻の潜水艦を配置したが、時既に遅く、ハワイを出港した米機動部隊は、そこを通過してミッドウェー北東海面に進出したあとであった。これらの有力な情報入手手段は、二つとも崩れて役に立たなかった。
 一方、米海軍は日本海軍暗号書Dをほとんど解読し、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、全力をもって反撃態勢を整えていた。
 日本海軍の目的、部隊の概略の編成、近接の方向並びに攻撃実施の概略の期日を知ったニミッツ提督は、次のような準備行動をとらせた。
1、ミッドウェー島の守備兵力を増強し、防備の強化に努めさせた。
2、南太平洋で行動中の全空母部隊をハワイに帰投させた。皮膚病で入院したハルゼー中将の代わりに起用したレイモンド・A・スプルーアンス少将は、第一六機動部隊(空母「エンタープライズ、ホーネット」、重巡五隻、軽巡一隻、駆逐艦九隻)を指揮して、五月二十八日(日本時間二十九日)に出撃した。珊瑚海海戦で損傷した「ヨークタウン」は、最初三ヵ月を要するものと見られていた修理を三日間の応急修理に短縮させた。この「ヨークタウン」は、五月三十日午前、重巡二隻と駆逐艦六隻(一隻は遅れて出港)に護衛され、フレッチャー少将指揮下に出撃した。
 この二つの空母部隊は、六月二日(日本時間三日)ミッドウェー北東約三二五カイリの会合点ラック・ポイントで合同、先任者のフレッチャー少将が作戦指揮をとることとなった。
 ニミッツ提督は、使用できる兵力のほとんどを集中したが、兵力の絶対量は不足していた。そこで、次のような作戦構想をたてた。
 ”ミッドウェーの哨戒機及び潜水艦によって、敵よりも先に日本の空母部隊を発見し、ミッドウェーに対する奇襲を防止する。空母部隊はミッドウェーの北東約三〇〇カイリの位置に密かに待機する。そして、敵空母を発見次第、直ちに進出して日本軍の側方から奇襲攻撃を行う”
 米機動部隊が西に向かってハワイを出撃した頃、わが連合艦隊も出撃している。
 海軍記念日であった五月二十七日、南雲中将の率いる第一機動部隊が瀬戸内海柱島泊地から出撃した。ミッドウェー作戦の中核兵力となる「赤城、加賀、飛龍、蒼龍」の四空母を基幹とし、戦艦二、重巡二、軽巡一、駆逐艦一二がその警戒に当ることになった。
 ミッドウェー占領の任務を与えられた陸軍・海軍の部隊を乗せた輸送船団と護衛の艦艇は翌五月二十八日、サイパン島とグァム島から出航した。これらの全般的支援に当る重巡群を基幹とする第二艦隊主力は、近藤信竹中将の指揮の下に、五月二十九日瀬戸内海から出撃した。
 また北方では、アリューシャン作戦の中核兵力となる四航戦の空母「龍驤、隼鷹」を基幹とする第二機動部隊は、角田覚治少将を指揮官として、最も早く五月二十六日、大湊から出撃していた。最初の目標はダッチハーバーの空襲である。
 アッツ攻略部隊は五月二十九日大湊を出撃し、キスカ攻略部隊は六月二日千島列島北方の幌筵島を出撃している。
 これはまさに、太平洋の北と中央を舞台にする大作戦で、山本長官もみずから戦艦「大和」に座乗して出撃することになった。山本大将の直率する戦艦七隻を含む主力部隊は、五月二十九日瀬戸内海から出撃し、本作戦成否の鍵を握る南雲部隊の後方を追いかけて、ミッドウェーとキスカの中間海域にあって全作戦の総指揮をとることになった。
 六月四日早朝、第二機動部隊(角田部隊)がダッチハーバーに対して第一次攻撃を開始した。連合艦隊司令部は、この報告に続いて、ミッドウェー攻略に向かっていた船団部隊が、敵機に発見され、交戦したとの報告を受けた。この敵機とは、ミッドウェーから索敵に出たPBY飛行艇である。PBYの索敵圏は、日本側が予想した五〇〇カイリよりも大幅に延びていた。七〇〇カイリの先端で日本の部隊を発見したのである。

PBYカタリナ

 「ミッドウェー基地を中継したPBY飛行艇の”敵部隊発見”の報を見たニミッツ長官は喜んだ。その敵発見の報告は、日本艦隊はミッドウェーに進攻してくるという彼の判断が正しかったことを何物にも勝って実証するものである。
 そして、彼はフレッチャーに対して次の暗号電報を緊急信で送った『これは敵の主攻撃部隊ではない!これは敵の上陸部隊である。敵の主攻撃部隊は明朝、北西方から攻撃してくる』と。フレッチャーはすでに同じように判断していたが、ニミッツからの電報を受けて、その確信をさらに深めた。四日一六五〇(現地時間三日午後七時五〇分)、彼は『ヨークタウン』の進路を南西とし、索敵機が南雲部隊を発見したならば、攻撃隊を発艦させる予定地点であるミッドウェーの北方約二〇〇カイリの地点に向かった」(ゴードン・W・ブランゲ著「ミッドウェーの奇跡」要約)
 六月四日夜、「大和」はミッドウェーの北方海面に敵空母らしい呼出符号うぃ傍受した。山本長官はすぐ「赤城」に知らせるよう注意した。しかし、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は「赤城」も当然傍受していると考え、無線封止を破ってまで知らせる必要はない、と考えて転電しなかった。実際には、「赤城」はこの重要な情報電を傍受していなかった。南雲部隊司令部はいぜんとして、米空母は付近にいないとの先入観念から抜け切れなかった。黒島参謀は終生、「自己の大きな失敗の一つ」として苦しんだ。
 南雲長官は六月五日の〇一三〇前後(現地時間四日午前四時三〇分、日出約三〇分前)、ミッドウェーの北西約二一〇カイリ付近に達し、空母の上空直衛機零戦一二機、ミッドウェー攻撃隊(零戦、九七艦攻《二航戦のみ》、九九艦爆《一航戦のみ》欠く三六機ずつ、計一〇八機)を発進させた。攻撃隊指揮官は飛龍飛行隊長友永丈市大尉である。
 また同時に、八戦隊司令官は対潜哨戒機、索敵機の順序に発進させたが、利根四号機は三〇分も発進が遅れた。索敵機は一段索敵七本で余りにも少な過ぎた。三〇分の発進時刻遅延は異常であるが、その他の三本の索敵線も五分、八分、一二分と発進が遅れている。発進順序も対潜哨戒機を先行させている。付近には空母は存在しないという先入観に支配されていたことによる。この状況判断の甘さと索敵軽視が命取りの要因となる。
 さて一方、ミッドウェーでは空襲に備えて待っていた。索敵機はいつものように〇一四五(現地時間午前四時四十五分)に発進、次いでB17は地上で奇襲を受けないように上空に飛び上がった。
 〇二一〇、索敵に出ていたPBY飛行艇の一機は、ミッドウェー北西一二〇カイリで東航する日本の水偵一機を発見したと報じた。続いて同機は〇二二〇、日本の空母を発見し、〇二二四「敵空母二隻とその警戒艦を、ミッドウェーの三二〇度、一八〇カイリで発見」を報告してきた。この報告は、日本軍の実際の位置から南東方に約四〇カイリだけ偏っていた。この誤差が米空母機のその後の戦闘を不利にする。
 〇二四五、別のPBY機はミッドウェーに向かっている日本の攻撃隊を発見し、平文で「多数機ミッドウェーに向かう。方位三二〇度、距離一五〇カイリ」と打電している。
 〇二五三、ミッドウェーのレーダーは「多数機三一〇度九三カイリ」と報じた。B17隊は敵空母に向かうように命ぜられた。
 所在機全機に発進が命ぜられた。F4Fワイルドキャット六、F2Aバッファロー二〇計二六機の戦闘機が〇三〇〇発進し、前方三〇カイリの配備点に向かった。続いて〇三一〇TDFアベンジャー(雷装)六機、B26マローダー(雷装)四機、SB2Uビンディケーター艦爆一二機、〇三一五頃SBDドーントレス艦爆一六機が発進している。

F2Aバッファロー(写真は英軍型)

TBFアベンジャー

B26マローダー

SBDドーントレス

SB2Uビンディケーター

 日本の攻撃隊は基準高度一、五〇〇メートルで進撃した。攻撃隊が〇三一五、ミッドウェー島を発見、その直後敵戦闘機隊が高度三、八〇〇メートル付近で待ち伏せているのを発見し、制空隊の零戦隊は壮絶な空中戦を展開した。零戦隊の指揮官は蒼龍飛行隊長菅波政治大尉である。
 F4Fの速力は零戦と大差なく、機体は頑丈で降下時の加速は優れていたが、旋回性能は零戦より劣っていた。支那事変、ハワイ海戦、印度洋での戦闘でますます磨きがかかったわが零戦搭乗員は、F4Fを得意の単機格闘戦に誘い込み、零戦の二〇ミリ機銃の餌食にしていった。ましてF2Aは問題にならなかった。F2AはF4Fに似ていたので、わが零戦搭乗員の中にはF4Fと思っていた者が多かったようである。
 米戦闘機は、質量ともに零戦隊に劣っていたので、帰還したもの六機、戦闘中不時着したもの四機あり、そのうち使用可能機は二機になってしまった。
 零戦隊が米戦闘機を追いつめている中を、艦攻隊と艦爆隊は高度三、四〇〇メートルで熾烈な地上砲火を受けながら計画通り攻撃を実施した。肝心の敵機はすべて出動中で、また滑走路の破壊も不十分なため、友永大尉は〇四〇〇「効果不十分、第二次攻撃の要あり」と発信した。本戦闘で、わが方は零戦二、艦爆一、艦攻四未帰還、艦攻四不時着(うち一名戦死)計一一機を失っている。
 友永大尉の無電が到着した直後、〇四〇五からミッドウェー基地を発進した敵機が日本空母群に対する攻撃を始めた。この小兵力毎の逐次攻撃は、〇五四〇頃までだらだらと続けられた。散発的で、連携がなく、魚雷・爆弾は一発も命中していない。
 わが方の空母直衛機は、わが攻撃隊発進時〇一三〇には零戦一二機であったが、南雲長官は〇二一五以後さらに六機を、〇三一〇にも六機を発進させた。それまで一機着艦したので、二三機の零戦が警戒に当っていた。敵機発見後さらに〇三五五に三機、〇四〇〇に五機、〇四〇五に三機、〇四一〇に五機を発進させた。その間五機収容、一機を喪失したので、敵機の来襲時には三三機の零戦が上空にいた。南雲長官は第二次攻撃用の零戦のほとんどを発進させている。
 零戦は、敵戦闘機がいないので縦横無尽に働き、敵来襲機を次々と撃墜し、またわが防御砲火も射ちまくった。
 最初に来襲した新鋭機TBFアベンジャー雷撃隊六機のうち五機を撃墜し、続いてB26マローダー爆撃機四機(臨時の雷装)のうち二機を撃墜し、帰還した三機にも作戦には使用できない損傷を与えている。
 米側資料によれば、隊長の他は飛行学校を卒業したばかりのパイロットで構成された一六機のSBDドーントレス急降下爆撃機隊は、緩降下爆撃後ミッドウェーにたどりついたのは八機だけである。そのうち六機は修理不能という大損傷を受けている。
 空の要塞B17爆撃機一五機は〇四五〇頃、高度六、〇〇〇メートルから数群に分かれて爆撃した。同隊は空母を撃沈したと報じたが、実際には一発も命中しなかった。零戦がB17に攻撃をしかけた記録は見当たらない。同隊の損傷は一機であった。
 ミッドウェー航空隊の最後の攻撃となった旧式急降下爆撃機SB2Uビンディケーター一一機は、〇五一五空母を発見、一隻の戦艦に対して緩降下爆撃を実施した。この隊も命中弾はなく、五機を失っている。
 この間、上空直衛機は三名の戦死者を出している。この中には、見方砲火によるものがあったようである。その他には全く損害はなかった。ミッドウェー海戦の第一ラウンドは日本側の一方的勝利に終わった。
 南雲長官は、索敵機が予定索敵線の先端に到着する時刻を待っていた。その時刻になっても敵艦隊発見の報告がないので、予想通り、付近には米艦隊は存在しないと判断し、第二次攻撃隊をミッドウェーに出発させる決意をして、〇四一五対陸上攻撃兵装に転換するよう命令した。対艦船攻撃待機中の艦攻は魚雷を陸用の八〇〇キロ爆弾に、艦爆は二五〇キロ通常爆弾に交換しなければならなかった。
 この前後から、南雲部隊は見度ウェーからの敵機の攻撃を受け、防空戦闘や兵装転換作業で混乱していた。その最中、往路に敵を見つけなかった利根四号機は、帰路の〇四二八敵らしきもの一〇隻発見を報じた。その位置はミッドウェーの北二四〇カイリで、同機の担任索敵線から大きく北に偏っていたが、誰も気付かなかった。
 次にこの索敵機は敵付近の天候を報告してきた。これにより、南雲長官は、先の報告は確実であり、当然空母を含む部隊であろうと判断し、この敵を攻撃するため、〇四四五頃「艦攻の雷装そのまま」と令し、第二次攻撃隊の兵装の再転換を命じた。
 〇五二〇になってやっと索敵機は、敵空母らしきもの一隻を伴うと報告してきた。これで敵空母の存在が明確になった。敵空母までの距離は、約二一〇カイリと推定された。この索敵機の報告は南雲部隊司令部に大きな衝撃を与えた。
 敵空母は搭載機の攻撃可能な距離にある。一刻も早く攻撃隊を出さなければならない。しかし、敵機が来襲中で、その防空戦闘のために、艦上には攻撃隊につけてやる零戦は一機も残っていない。空母上空に帰っているミッドウェー攻撃隊も急いで収容しなければならない。また、兵装復旧作業も二航戦の艦爆のほか終わっていない。南雲部隊司令部はジレンマに直面していた。
 一刻を争う戦況と判断した山口二航戦司令官は、「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と、南雲長官に意見具申した。即座に出せる兵力は、二航戦の艦爆三六機だけである。
 しかし、南雲長官は、まずミッドウェー攻撃隊を収容し、二航戦の艦爆隊(三六機)、現在準備中の一航戦艦攻隊(四三機)に少数ではあるが掩護戦闘機(一二機)を付けた強力な攻撃隊で、敵空母を撃滅する方針をとった。そして、その準備ができる間、部隊を北上させて敵空母までの間合いをつめようとした。
 航空参謀源田實中佐は戦後次のように回想している。
 「ミッドウェー攻撃隊の収容をあきらめて、これを海上に不時着させ、艦上にある攻撃隊の準備を急いでこれを発進させるのがよいか、一挙に敵を撃滅するのが有利か、その判断に苦しんだ。検討の結果、敵機の来襲までにはまだ時間的余裕があると判断して、後者を採ったのである。敵から一時離脱して攻撃準備を完成しようとは全く考えなかった」(戦史叢書「ミッドウェー海戦」)
 源田参謀の判断した時間的余裕の根拠とは、当時入手していた敵空母の位置(利根四号機報告)は味方から約二一〇カイリであり、敵機来襲までには時間的な余裕があることを示している。万一来襲しても、その場合には敵戦闘機はついてこられない、朝からの邀撃戦のように、上空直衛機で撃退できると考えていた。利根四号機の報告による敵空母の位置はミッドウェーの北二四〇カイリとなっていたが、実際の敵空母の位置はミッドウェーの北一三〇カイリであった。その場合の味方からの距離は九〇カイリしかない。これから見ても、利根四号機は敵空母の位置を大きく誤り、南雲長官の戦闘指導をミスリードしたことになる。
 ここで、米機動部隊の動きに目を転じてみよう。
 ミッドウェー基地の索敵機PBY飛行艇が最初に日本空母部隊を発見したのは〇二五二であったが、その時米機動部隊は日本空母部隊の東微北約二〇〇カイリの地点にあった。第一七機動部隊司令官フレッチャー少将は、第一六機動部隊司令官スプルーアンス少将に、南西に進出して、日本空母を攻撃するよう命じている。
 スプルーアンス少将は、初めは攻撃隊を〇六〇〇に発艦させる予定であった。雷撃機の攻撃半径が一七五カイリしかないことから、日本空母部隊との距離を一〇〇カイリ以内に縮めたかったからである。
 ところが、ミッドウェー基地攻撃を終えた日本の攻撃隊が空母に帰投する時刻を襲うべきであるとの、参謀長ブラウニング大佐の進言を容れて、予定よりも二時間早めて、〇四〇〇に攻撃隊を発進させる決断を下した。この決断は勇気を要することであったが、やがて立派な成果に報いられることになる。
 〇四二八、「エンタープライズ」のレーダーが南方に目標を捕捉した(これは利根四号機と思われる)。そこでスプルーアンス少将は、敵空母に対する攻撃を急がなければならないと考えて、全兵力による協同攻撃を断念し、すでに上空にあるものから逐次進撃するよう命じた。「エンタープライズ、ホーネット」両艦の攻撃隊は、引返したものを除くと、F4F二〇機、SBD六五機、TBD二九機から成っていた。

TBDデバステーター

 一方、フレッチャー少将は、まだ発見されていないが、二隻は存在すると推定される日本空母に備えて、「ヨークタウン」の航空兵力を控置していたが、既に発見されている空母を攻撃するために、〇五三八攻撃隊を発艦させた。しかし、念のためSBD急降下爆撃隊の半分を控置することにした。「ヨークタウン」から発進したのは、F4F六機、SBD一七機、TBD一二機である。
 敵空母に接触中の利根四号機は、〇五五五敵攻撃機一〇機が味方へ向かった旨を報じた。この敵攻撃隊は〇七〇〇過ぎに来襲するものと判断された。
 南雲部隊はミッドウェー攻撃隊と上空直衛機の半数の収容を急ぎ、〇六一八頃その作業を既成した。その時、重巡「筑摩」は右前方遠距離に敵機十数機が来襲するのを発見した。
 米空母部隊の攻撃隊のうちで最初に目標に達したのは、「ホーネット」の雷撃隊TBD一五機である。同隊は〇六二〇日本空母部隊を発見し、接敵行動に入った。この時既に上空直衛の零戦隊はこれを発見しており、低速低高度でよたよたと攻撃に入った雷撃機に襲いかかり、各艦の対空砲火も協同して激しい砲火を浴びせかけ、全機撃墜した。この雷撃隊の技量は拙劣としかいえないが、極めて勇敢であった。この撃墜された一五機の三〇名の搭乗員の中で、一人だけ生き残り、翌日漂流中に味方に救助されている。
 続いて、〇六三八から「エンタープライズ」の雷撃隊が突入を開始したが、零戦が大挙して襲いかかり、一四機のうち指揮官を含む一〇機を撃墜した。
 両雷撃隊とも魚雷は一発も命中しなかった。
 「『エンタープライズ』のF4F一〇機は、自艦の雷撃隊を掩護していたが、途中で間違って『ホーネット』の雷撃隊についていた。しかし、その雷撃隊が南雲部隊に方向を変えた時に見失い、次に同隊を見つけた時には、雷撃隊は多数の零戦に襲われていてどうすることもできなかった。F4Fはその後高高度を保っていたが、零戦を発見できずに帰投した」(「ミッドウェーの奇跡」要約)
 敵機攻撃の合間に零戦を発艦させて、〇七〇〇には上空直衛機は三四機以上になっていた。敵機の大部分を撃墜したのは、主として上空直衛の零戦の活躍に負うものである。低空で雷撃機を片端から叩き落とす奮戦振りは、艦上からも容易に認めることができ、南雲長官以下全員に安心感を与えた。零戦は、機銃弾も撃ち尽くし、激戦の合間に弾薬補充のため着艦しては、再発進していった。
 〇七一五「赤城」は、はるか水平線上に雷撃機一二機を発見した。遅れて発進したこの「ヨークタウン」の雷撃隊は、零戦の猛襲を受けて、空母に対する攻撃終了までに二機を残しただけである。
 「ヨークタウン」の雷撃隊には戦闘機飛行隊長サッチ少佐の率いるF4F六機が随伴していた。サッチ少佐は、日本空母上空で多数の零戦を相手に、彼の考案したサッチ・ウイーブ戦法をこの実戦で初めて試みた。サッチ戦法と本戦闘におけるサッチ少佐の行動については第六章で詳述される。
 米機動部隊の攻撃隊は、協同攻撃の計画が全く崩れてしまった。急降下爆撃隊は三隻の米空母からそれぞれ発進したが、日本空母の発見が遅れ、雷撃隊の攻撃に間に合わなかった。「ホーネット」から発進した急降下爆撃隊三五機と戦闘機隊一〇機は、遂に南雲部隊を発見できなかった。急降下爆撃機二一機は母艦に帰投し、他の一四機はミッドウェー基地に向かったが、そのうち三機は着陸の際に破損した。航続力の短い掩護戦闘機は全機、燃料切れで海上に不時着してしまった。
 五〇メートル以下の低空を一〇〇ノットにも満たない低速のTBD雷撃隊は、勇敢ではあるがバラバラで攻撃することになった。旧式の雷撃機で性能が悪く、使用する航空魚雷も劣速であり。技量も拙劣である。上空直衛機零戦の敢闘善戦と各艦の対空砲火によって多数が撃墜されてしまった。魚雷がようやく発射されても、巧みな繰艦回避によって、一本の魚雷も命中させることができなかった。来襲した米空母の雷撃機総数四一機のうち三五機が撃墜されるという大損害を出している。
 しかしながら、米雷撃隊の大犠牲は無駄にはならなかった。各空母は雷撃回避運動に気をとられ、上空直衛の零戦もこの雷撃機に注意を奪われ、その大部分が低空に下がり、各艦の見張りも雷撃機だけに注目していた。日本の艦隊は上空に対する警戒をおろそかにしていた。日本海軍はこの時、「左戦闘、右見張」の戒めを忘れていたようである。結果的には、米雷撃隊の行動は爆撃機隊の奇襲を成功させることになった。
 「ヨークタウン」の雷撃隊が悲壮な雷撃を終わろうとしている時、太陽を背にして突入してきたのは、「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃機である。
 「エンタープライズ」の急降下爆撃機隊SBD三七機は、予想海面に日本空母を発見することができず、機首を北方に向けたところ、偶然に目標を発見することになった。一時間以上も遅れて発艦した「ヨークタウン」の急降下爆撃機隊SBD一七機も運よく同時に攻撃することになった。エンタープライズ隊は「赤城」と「加賀」に、ヨークタウン隊は「蒼龍」に襲いかかった。
 攻撃は全くの奇襲となった。〇七二三頃「加賀」に四弾、〇七二四頃「赤城」に二弾、〇七二五頃「蒼龍」に三弾命中した。いずれも大火災が発生し、準備中の味方の魚雷、爆弾の誘爆により、三空母は戦闘力を失った。
 一隻だけになった健在の空母「飛龍」は、積極的な名指揮官と謳われた山口二航戦司令官の旗艦である。同司令官は、即座に敵空母攻撃を決意し、間合いをつめるために敵方に急進した。来襲機数からみて米空母は二隻と判断していた。米空母の攻撃隊収容直後の好機に攻撃しようとし、準備完了の艦爆一八機と準備の間に合った零戦全機の六機から成る小林道雄大尉指揮の第一次攻撃隊を〇七五八に発進させた。戦闘機隊は重松康弘大尉が指揮している。
 米空母部隊に接触中の筑摩五号機は、〇八一〇敵空母の位置は味方の七〇度九〇カイリと報じ、その後攻撃隊の誘導に当たった。
 「飛龍」は、攻撃隊発進後第二次攻撃準備を急いだ。
 飛龍攻撃隊は発進後約二〇分、高度五〇〇メートルで味方部隊に向かうTBDデバステーター雷撃機六機を発見、零戦隊はこれを攻撃し、撃退した。この空戦で、零戦一機が機銃弾を撃ち尽くし、他の一機は被弾のために引き返した。掩護の零戦は四機に減ってしまった。
 攻撃隊は、筑摩五号機の誘導を受けながら進撃し、〇八五五敵空母一隻を発見し、攻撃に移るため上昇した。その三分前、「ヨークタウン」のレーダーは四五カイリ離れた地点に飛龍攻撃隊を捕捉し、一二機の上空直衛機F4Fを配備し、スプルーアンス隊からF4F六機の救援を求めた。
 「『ヨークタウン』の艦上では、ガソリン・パイプ内のガソリンを抜き、パイプ内に二酸化炭素ガスをつめる作業が始まった。ガソリン・パイプが破損しても、引火する危険性をなくそうというのであった。また、約三〇キロリッター入りの補助ガソリン・タンクは海中に投棄された」(「ミッドウェーの奇跡」)米海軍のダメージ・コントロール(被害局限)や応急処置は日本海軍よりも徹底し、種々の工夫がなされていた。
 〇九〇〇、「ヨークタウン」から約一五カイリ手前の地点で一二機のF4Fが飛龍攻撃隊に襲いかかった。性能が如何に優秀な零戦でも、数の上では三倍も優勢なF4Fに苦戦を強いられて、艦爆隊を守りきれなかった。その上スプルーアンス隊のF4F六機も加入してきて、艦爆は次々と火を吐き、一〇機が撃墜された。
 それでも、艦爆八機は急降下に入ったが、全く予想もしていなかった程猛烈な防御砲火を浴びせられて、二機が撃墜された。残った六機の投弾のうち三発が命中し、「ヨークタウン」に火災を発生させた。その後、さらに艦爆一機が撃墜された。〇九一六に戦闘が終わった。
 この戦闘で、零戦も三機が撃墜され、結局帰還できたのは艦爆五機と零戦一機だけである。
 「ヨークタウン」の被害が大きいので、フレッチャー少将は、一〇二四頃重巡「アストリア」に将旗を移した。「ヨークタウン」は間もなく消火と飛行甲板の応急修理に成功し、一一二八には一九ノットに増速することができた。
 「飛龍」の第一次攻撃隊の戦果が報ぜられた直後、〇九二〇索敵機筑摩五号機から別の米空母部隊(空母は一隻)発見の報が入った。
 この新たに発見された空母に向け、山口司令官は一〇三一使用可能の全攻撃兵力を集めて編成した第二次攻撃隊を発進させた。その兵力は艦攻(雷装)一〇機、零戦六機(指揮官森茂大尉)に過ぎなかった。指揮官はミッドウェー攻撃隊の指揮をとった友永大尉である。その乗機の艦攻は、被弾箇所の修理が間に合わず片翼の燃料タンクが使えなかったが、友永大尉は周囲の制止を斥け、敢然として攻撃に参加した。
 友永隊は一一三〇米空母一隻を発見した。その位置は発艦前に与えられたものとは違っていたが、火災が既に鎮火した「ヨークタウン」を別の空母と判断したようである。
 「ヨークタウン」の警戒レーダーは、一一〇〇友永隊を捕捉している。同艦から八機のF4Fが発進し、既に上空にあった四機と合流した。なお、同艦の東方にあったスプルーアンス隊からもF4Fが進出してきた。
 一一三二、「ヨークタウン」から十数カイリ離れたところで、約三〇機のF4Fが友永隊に襲いかかり、直ちに六機の零戦との空中戦が始まった。零戦は圧倒的多数のF4Fを相手に死闘を続けながら、艦攻隊が突撃するのを護った。スプルーアンス隊から巡洋艦二隻、駆逐艦二隻を増援されていた「ヨークタウン」の警戒幕(一.五キロの半径の中央に空母、その外周に巡洋艦五隻、駆逐艦六隻、内周に駆逐艦六隻を配した輪型陣)から、熾烈な全砲火を艦攻隊に集中する中を、艦攻大破二手に分かれ敵空母を包囲肉薄した。艦攻隊の半数が魚雷発射に成功し、そのうち二本を命中させた。「ヨークタウン」は大爆発し、大きく傾斜した。復旧の見込みがなくなり、一一五五総員退去が下令されている。
 友永隊の損害も大きく、艦攻五機、零戦二機が撃墜された。友永大尉は体当たり自爆した。零戦一機は被弾のため味方上空に帰投後、海上に不時着水し、搭乗員は救助されている。
 これより先、第二次攻撃隊を発艦させた後、二式艦偵(一三試艦爆)が「飛龍」に収容された。のちに「彗星」と名付けられたこの機は、高速性能を持った試作中の艦爆で、「蒼龍」に二機搭載していた。〇五三〇に索敵に赴いたが、電信機が故障したため、着艦して初めて貴重な報告をもたらした。この報告によって、山口司令官は敵空母は三隻いることを確認したのである。この時点で、第三次攻撃に直ちに使用できる機数は、艦爆六機と零戦九機しかなかった。
 ここで山口司令官は心を砕いた。
 第一次攻撃隊は空母一隻を撃破した。第二次攻撃隊もうまくいくと空母一隻をやっつける。それにしても敵空母は一隻残ることになる。一刻も早く第三次攻撃隊を発進させなければならない戦局であるが、使用可能兵力は過少であり、第一次攻撃隊の被害状況からみても、敵戦闘機の反撃は依然強いことが判った。
 そこで、山口司令官は、戦局的には不利であるが、過少兵力では被害のみ多く効果の少ないと思われる昼間強襲を取止めて、少数機でも確実な効果が期待できる薄暮攻撃を行うことを決意した。薄暮攻撃を行うとすれば若干兵力も増加することができる。この間敵機の来襲があっても、敵空母一隻分の来襲機数とわが防空戦闘機数からみて、これを阻止できると判断した。
 一方、一一三〇になってようやく「ヨークタウン」の索敵機が「飛龍」を発見し、一二三〇「エンタープライズ」から二四機、次いで一三〇三「ホーネット」から一六機の急降下爆撃機が発進した。フレッチャー少将はその後の航空作戦の指揮をスプルーアンス少将に一任している。
 エンタープライズ隊は、一三四五頃「飛龍」を発見した。その時既に零戦一三機が上空直衛についており、一三四〇にSBD一二機を発見しているが、「飛龍」とその警戒艦はその事実を知らなかった。
 エンタープライズ隊は、夕方の太陽を背にするため高度約五、五〇〇メートルで気付かれないように接敵した。一三五八、突撃を開始した。その時、零戦はやっと攻撃を始めようとしていた。
 一四〇一「飛龍」は太陽を背にして急降下してくる敵艦爆群を発見し、三〇ノットを出していた同艦は回避に努めたが、一四〇三遂に四発の爆弾が命中した。「飛龍」にとっては全くの奇襲であった。
 遂に空母四隻が全滅した。
 山本長官は空母の全滅を知ったあとも、攻略部隊と第一機動部隊の決戦兵力をもって夜戦を断行し、敵艦隊を捕捉撃滅したうえ、ミッドウェー攻略の目的を達成しようとした。しかし、敵の残存空母兵力が大きいのを知ると、作戦を断念して戦場を離脱する決意を固め、五日二三五五ミッドウェー攻略作戦の中止を命じた。
 一方、米機動部隊の作戦指揮をとっていたスプルーアンス少将は、砲撃力では圧倒的に優位な日本艦隊との夜戦を避けるため、東方へ一時後退して、深夜になって再び西方へ向かう決定を下した。冷静賢明な決定である。
 大破して漂流していた「ヨークタウン」は六月七日午前、寄り添っていた駆逐艦「ハンマン」とともに、日本の伊号第一六八潜水艦によって雷撃撃沈された。
 同じく七日、僚艦「最上」と衝突事故を起こした重巡「三隈」は、スプルーアンス少将の「エンタープライズ」と「ホーネット」の艦上機の連続攻撃を受けて沈没した。
 こうして、ミッドウェー海戦は米国側の大勝利によってその幕を閉じた。
 艦艇の損失については、米国側が空母一隻と駆逐艦一隻を失ったのに対し、日本側は空母四隻と重巡一隻を失っている。
 航空機の損失について日米を比較してみる。「ニミッツの太平洋海戦史」では、米国側一五〇機、日本側三二二機の損失となっている。戦史叢書では日本側の損失は、推定二八五機(内訳 零戦一〇五、艦爆八四、艦攻九四、艦偵二)となっている。日本側は空母四隻搭載の全機を失った。零戦の数が多いのは、占領後のミッドウェーで使用する予定であった運搬中の六空零戦二一機が含まれているからである。
 わが海軍の生産の実行計画は、各種の制約を受けて、次表のとおり極めて少ないものであった。特に基地航空部隊と同一機種を使用する零戦についてはその傾向が甚だしかった。そのため零戦の補給が間に合わず、十七年六月二十二日調査の基地航空部隊の零戦の保有機数は、定数に対して実に約五四%という貧弱な状況であった。

注 生産実績(計画)

昭和十七年 一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 製造所
零戦 七九 八〇 九〇 八五 九四 七九
(八四)
九八
(九六)
一一六
(一〇五)
三菱・中島
九九艦爆 二三
(二四)
二二
(二六)
一一
(二六)
二〇
(二五)
一八
(二六)
一八
(二二)
一三
(一八)

(一五)
愛知
九七艦攻 愛知、十一空廠

 珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦と空母機の大きな消耗が続いたことは、その生産力が不十分であったわが海軍にとって大きな痛手であった。これが空母部隊の戦力回復にとって大きな障害となる。
 飛行機は生産によって数ヵ月で補充できる。しかし、空母機の搭乗員は貴重な存在であり、練達の域に達するには五年以上の年月を必要とする。本海戦における搭乗員の戦死者に関する正確な記録は残っていない。内地に帰還して作成された「一航艦戦闘詳報」によると、搭乗員の消耗は五二組となっている。戦死者は百名以上に及んだものと推定される。
 珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で練達搭乗員多数が失われたことは、わが海軍の戦力の低下を招き、その後の戦局に大きな影響を与えることになる。
 本海戦は太平洋における戦局を決した大きなターニング・ポイントとなり、日本海軍は緒戦以来手中にしていた作戦の主導権を米海軍に渡してしまうことになった。
 アリューシャン作戦と零戦の不慮の捕獲 十七年六月三日深夜、ミッドウェー作戦に先行して、角田少将の指揮する第二機動部隊(空母「龍驤、隼鷹」を基幹)は、濃霧の中をアリューシャンの要衝ダッチハーバーに忍び寄った。
 第一次攻撃隊(艦攻一四機、艦爆一五機、零戦一六機)は三日二三〇〇頃発進したが、悪天候のため見るべき戦果を挙げることはできなかった。
 第二次攻撃隊は、四日〇五四五から〇七五〇の間に発進したが、天候が悪く、マクシン湾に突入できたのは水偵二機だけで、この水偵もP40と交戦じ、一機は撃墜され、他の一機も被弾のため機体は放棄された。
 五日の第三次攻撃隊(艦攻機九、艦爆十一機、零戦一一機)は、一一四〇から一二〇四の間に発進し、ダッチハーバーの軍事施設や在泊艦船を爆撃した。この時、敵戦闘機が邀撃して来て「、空中戦が演じられた。
 この空戦で被弾した零戦一機がダッチハーバー東方の小島アクタン島に不時着し、搭乗員は未帰還となった。米軍は、初めて零戦を入手し、サンディエゴの海軍航空基地に後送した。
 この零戦は、米海軍の技術者とテストパイロットにより徹底的に調査され、実験飛行が行われた。こうして、零戦の神秘のヴェールがはぎとられ、零戦対策が講じられることになった。これらの詳細については第六章で述べらる。この米軍による零戦の捕獲は、日米の制空権争奪に大きな影響を及ぼすことになる。

2、ガダルカナル島争奪戦

 ミッドウェー作戦の失敗により、大本営海軍部はFS作戦を二ヵ月延期して、十七年九月中旬実施の方針を内定した。FS作戦を進めるための基地航空部隊の前進基地とする目的で、ガダルカナル島(ガ島と略称)の飛行場建設に着手することになった。
 そのために、七月上旬、海軍は門前鼎大佐、岡村徳長少佐のニコ設営隊二、五七一名と陸戦隊二四七名を投入した。

 連合国のガダルカナル島来攻と反撃戦 米国は、ミッドウェー海戦大勝の勢いに乗って、サンタクルース諸島、ニューヘリブデス諸島から漸次、地上航空基地を北上させる反攻の第一作戦(ウォッチ・タワー作戦と呼称)をたて、十七年八月七日、機動部隊支援の下に、米海兵師団がツラギとガ島に来襲した。
 ちょうどわが設営隊の苦労が実を結び、八月五日には長さ八〇〇メートル、幅六〇メートルの滑走路が概成し、零戦の進出可能と報じたばかりである。
 当時、南東方面には第八艦隊、二五航戦などと、陸軍第十七軍がいた。二五航戦は、ツラギに横浜空主力(飛行艇七機、水上戦闘機九機)を派遣し、主力はラバウルに在った。その兵力は、零戦三九機(台南空)、陸攻三二機、艦爆一六機、陸偵二機、飛行艇四機である。零戦の一五機は航続距離の短い二号零戦であったため、ガ島に往復できるのは二四機に過ぎなかった。

(注)二号零戦(三二型)は、零戦二一型(一号零戦)の性能向上を図るため、従来の栄一二型発動機(離昇九四〇馬力)から栄二一型発動機(離昇一、一三〇馬力、二速加給器付き)に換装し、かつ、生産簡易化のため、翼端の折りたたみ部を廃止し、翼幅を一一メートルとしたものである。燃料容積がやや減少し、このために二一型に比し、航続距離が短くなった。

 連合艦隊司令部は、ソロモン諸島方面を敵の主反攻路線の一つとして、その時期は海軍部と同じく一八年秋以降と判断していたので、全く寝耳に水の状態であった。しかし、敵が上陸部隊を揚げたことは、これに伴う敵機動部隊を捕捉撃滅できると判断した。
 ツラギからの敵来攻の急報により、零戦一七機(台南空飛行隊長中島正少佐指揮)及び陸攻二七機は、敵空母を目指して、〇七五五ラバウルを発進した。敵空母を発見できず、一一一五ツラギ上空に突入した。
 米側資料によれば、米軍は〇八四五ボーゲンビル島の沿岸監視員からの報告により、既に日本軍攻撃部隊の進撃を知っていた。さらにツラギ上空到着の五分前に「シカゴ」のレーダーが探知し、同艦の戦闘指揮班は空母「ワスプ、エンタープライズ、サラトガ」のF4F計六二機を指揮して、わが攻撃隊を邀撃した。わが零戦隊は、このF4F群と交戦し、F4F四三(うち不確実七)、SBD五、中型機一計四九機の撃墜を報じた。(米側資料によれば、F4F一一機、SBD一機)。わが方も零戦二機、陸攻五機を失っている。
 別に、艦爆隊九機が〇八四五ラバウルを発進、一三〇〇、十数機のF4Fの妨害と熾烈な対空砲火を突破して攻撃、ガ島沖の駆逐艦一隻に命中弾を与えた(米側資料)。この戦闘で、艦爆隊は二機を失い、七機が帰途についたが、三機が不時着水し、四機が未帰還となった。米側は艦爆隊一一機中一〇機を撃墜したと述べている。
 ラバウルにはポートモレスビー方面からB17一三機が、一〇二〇来襲し、零戦延二八機(二号零戦が主力)で邀撃、一機撃墜を報じている。
 七日暗くなるまでに焼く一万名の米海兵隊がガ島に上陸し、八日午後半ば頃、飛行場は米軍に占領された。ツラギ守備隊も激しい防戦を行ったが、遂に全滅した。
 八月八日、直掩零戦一五機(台南空)、陸攻二三機の攻撃隊は、敵空母を発見できず、約一〇機のF4Fの妨害と熾烈な防御砲火を排除して、ツラギ沖の敵艦船を強襲した。米側資料によれば、連合軍は前日と同じく、わが攻撃隊の到達八〇分前に、ボーゲンビル島沿岸監視員の報告によって情報を入手していた。敵艦船は輸送船団の外側に巡洋艦、駆逐艦をつけ、一斉回頭による回避運動を行った。この時上空哨戒中の敵戦闘機はわずか三機に過ぎなかった。陸攻隊は超低空(七メートル前後)で雷撃を敢行している。
 わが攻撃隊は大戦果を報じたが、米側資料によれば、輸送船一隻を炎上廃船にし、駆逐艦一隻を中破させただけである。わが方は陸攻一八機未帰還、五機被弾、零戦一機自爆、一機未帰還という大損害を出した。損害の大部は、主として敵防御砲火によるものである。

 第一次ソロモン海戦 この日の深夜、第八艦隊司令長官三川軍一中将は、重巡五、軽巡二、駆逐艦一計八隻を率いて、米輸送船団攻撃のために、ひそかにガダルカナル泊地に進入した。ここで、米豪連合艦隊の不意を衝き、応戦の遑さえ与えず、「鳥海」の水上機の吊光弾の照明の下で、わが海軍の伝統的な夜戦(砲魚雷戦)によって、三五分間で敵重巡四隻を沈め、その他重巡一隻、駆逐艦二隻を大中破した。わが方の損害は旗艦「鳥海」と「青葉」が小破しただけである。
 この戦果を挙げた三川中将は全軍引揚げを下令した。鳥海艦長早川幹夫大佐は輸送船団攻撃の作戦目的達成のために再度突入の意見具申をしたが、容れられなかった。もう一押しというところまで踏み込みながら、こうして敵輸送船団には一指も触れず、絶好の機会を逸している。魚雷をほとんど消耗し、再度の突入に二時間をかければ離脱は夜明け近くになり、付近にいると思われる空母部隊の艦上機の攻撃を受けるおそれがあるというのが指揮官の考えであった。山本長官は作戦目的を達成しなかったことを非常に不満とした、と渡辺安次参謀は戦後回想している。小成に安んじ追撃を怠ったという批判が強い。
 フレッチャーの空母部隊は、七、八日も両日の空戦で二一機(九九機から七八機)の戦闘機を失ったのを理由に、八日夕刻泊地を引揚げて南方に退避していた。
 これが第一次ソロモン海戦である。米国はサボ島海戦と呼称している。
 八月十二日陸攻三機がガ島を強行偵察した。陸攻機に便乗したラバウル方面防備部隊第八根拠地隊主席参謀の「敵主力は既に撤退せるか、撤退せんとしつつある感じなり。残存敵兵及び舟艇は取残されたるものと認められる」との偵察報告に、現地は勿論、大本営も連合艦隊司令部も楽観的となった。
 大本営は十三日、今後の南東方面の作戦要領として「ポートモレスビーの攻略作戦を既定計画に基づきすみやかに実施するとともに、ソロモン海戦の成果を利用してガ島飛行場の奪回」を骨子とする陸海軍中央協定を指示した。
 こうして、とりあえず精鋭といわれた陸軍の一木支隊(約二、四〇〇名)をガ島に急送し、同島を攻略することになった。
 一木支隊先遣隊約九〇〇名は、駆逐艦六隻に分乗し、八月十八日ガ島に上陸した。敵兵力は二、〇〇〇名程度との情報を得ていた同隊は、攻撃を急いで二十一日会敵し、八〇〇名近くが戦死した。
 一方、米軍は占領した飛行場をヘンダーソン飛行場と命名し、十九日にはに完成させ、二十日には海兵隊航空隊のF4F一九機、SBD一二機が進出してきた。

 第二次ソロモン海戦 八月二十日、索敵機がガ島南東約二五〇カイリに敵空母部隊を発見した。連合艦隊司令部は、敵は北上して一木第二梯団を攻撃するものと判断し、近藤信竹中将の第二艦隊と南雲中将の第三艦隊に急速南下を命じた。こうして第二次ソロモン海戦が起こる。
 ここで、従来のわが機動部隊が改編されて第三艦隊となったので、簡単な説明を加えることにする。

 ミッドウェー海戦の戦訓をとり入れて、十七年七月十四日連合艦隊の編制替えが行われた。第三艦隊は、従来一航艦に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を加えて臨時に編成されていた機動部隊を建制化し、警戒兵力を増強するとともに、航空戦隊を再編成したものである。
 この航空戦隊編制案は、一コ航空戦隊の空母を御お型二隻、小型一隻の三隻編制(従来二隻)とし、その搭載機は、艦戦、艦爆を増加し、艦攻を減らすものであった。小型空母は主として艦戦を搭載して自隊の防御を担任した。大型空母の飛行機による攻撃は、艦攻より比較的被害が少なく効果的な艦爆により、まず敵空母の飛行甲板を爆破して、その機能を喪失させ、次いで艦攻によって雷撃撃沈する方針を採った。このため攻撃力の重点を艦爆に置き、艦攻隊は主として索敵に充て、その後雷撃に使用することにした。ミッドウェー海戦後の「翔鶴、瑞鶴」の搭載機定数は、零戦二七機、艦爆二七機、艦攻一八機(ミッドウェー海戦は零戦、艦爆、艦攻各二一機)となった。
 新戦策を定め、「航空決戦を主目的とし、空母中核に徹し、水上兵力はこれに協力する」という方針を採った。やっと、形の上では、航空主兵の兵術思想に転換したが、従来の思想から脱却できなかった戦艦、巡洋艦乗りにはなかなかこれが飲み込めず、指揮官の思うように作戦を実施できる状態にはなかった。

 八月二十三日朝、ガ島に向かっていた一木第二梯団の輸送船団は、ガ島の北方海域で敵哨戒機に触接されて引返さなければならなかった。
 翌二十四日、第三艦隊は朝の索敵で敵空母を発見しなかったので、軽巡一、駆逐艦二、を警戒艦とした空母「龍驤」(零戦二四、艦攻九)を分派して、ガ島の敵航空兵力の粉砕を企図した。攻撃隊の艦攻六機(爆装)、直掩零戦六機、遊撃隊零戦九機は、納富大尉指揮の下に、一二三〇頃飛行場に突入、爆撃した。その前後に敵戦闘機一五機と交戦、おおむねその全機の撃墜を報じた。わが方も零戦二機、艦攻三機が自爆し、艦攻、零戦書く一機が被弾不時着している。
 一方、米索敵機に発見された空母「龍驤」は、一三五七サラトガ攻撃隊(SBD三〇、TBF八)の同時攻撃により、至近弾多数を受け、最後に魚雷一本命中、夕刻ガ島の北方約二〇〇カイリの地点で沈没した。上空直衛の零戦七機は奮戦し、SBD六機、TBF四機(うち不確実一)の撃墜を報じた。米側資料によれば、サラトガ攻撃隊のSBD七機、TBF二機が「利根」に向かったほか(「利根」は被害なし)、全機が「龍驤」を攻撃し、全機母艦に帰投している。
 その後の索敵で、「敵大部隊見ゆ、我、戦闘機の追躡を受く」と打電して消息を断った索敵機の位置を推定して、一二五五機動部隊本隊(「翔鶴、瑞鶴」)は第一次攻撃隊(艦爆二七、零戦一〇)を発進させた。第一次攻撃隊は、一四二〇、二群から成る敵機動部隊を発見した。第一群はステワート諸島の一四一度一六カイリ、第二群は動一六七度二七カイリの位置にあった。「エンタープライズ」のレーダーは、一四〇二大編隊を八八カイリの距離に探知し、F4F五三機を上空に待機させていた。
 翔鶴隊(艦爆一八、零戦四)はエンタープライズ隊を、瑞鶴隊(艦爆九、零戦六)はサラトガ隊を攻撃した。零戦隊が多勢のF4F群を相手に奮戦している間に、艦爆隊は輪形陣からの猛烈な対空砲火の中で急降下爆撃を敢行した。翔鶴隊は「エンタープライズ」の甲板に爆弾三発を命中させ、至近弾二発を与えたが、同艦は、消火と応急修理に努め、一時間後には、二四ノットの速力を出し、飛行機の収容作業にあたることができた(米側資料)。なお、瑞鶴隊のサラトガ攻撃については記録がなく、命中弾も与えていない。
 この時の空中戦で敵戦闘機一二機以上(うち不確実一以上)の撃墜を報じたが、わが方の損害も大きく、自爆及び未帰還艦爆一七機・零戦三機、被弾不時着水艦爆一機・零戦三機を出している。
 さらに、第二次攻撃隊(艦爆二七、零戦九)を一四〇〇に発進させたが、両艦の艦爆指揮官機はいずれも受信不良および誤受信により、敵を発見し得ず、遂に敵を逸してしまった。また、母艦からの行動変更の通知が遅れ、攻撃隊は暗夜の中を母艦捜索に苦心し、艦爆四機が機位を失して行方不明となり、同一機が不時着水している。
 わが方は空母一隻と多数の搭乗員と飛行機(零戦三〇、艦爆二三、艦攻六)を失った。米側資料によれば、米側母艦機の被害は二〇機、撃墜機数九〇機と報じている。
 これが第二次ソロモン海戦である。南雲中将は、ミッドウェー海戦の復讐をすることができなかった。

 ガダルカナル島奪回への死闘 八月二十三日反転南下してガ島に向かった一木支隊第二梯団(一木支隊の残り一、五〇〇名と横須賀第五特別陸戦隊約六〇名)の輸送作戦は、二十五日ガ島北方海域において再び敵機の攻撃を受けて失敗に終わり、ラバウルに引返した。
 そこで、連合艦隊司令部(八月十七日柱島泊地から出撃)は、ガ島飛行場攻略までは船団による上陸をやめ、駆逐艦等による急速輸送、いわゆる鼠輸送に変更する方針を決定した。
 ガ島の奪回には、ガ島の敵航空兵力を制圧するとともに、ガ島に対する敵の補給を遮断するために、敵支援海上兵力を撃滅することが先決問題であった。敵空母部隊の撃滅を後回しにするほど、ガ島奪回は急務とされた。
 その主役は基地航空部隊であって、その航空撃滅戦の成果にかかっていた。しかし、海軍航空部隊は、ガ島航空撃滅戦だけではなく、陸路攻略作戦を開始したポートモレスビー方面の敵航空兵力にも対抗しなければならなかった。わが方の基地航空兵力は、台南空及び二空の零戦約三〇機、陸攻約三六機程度に過ぎず、連合艦隊司令部は兵力不足を考慮し、増強の措置を執った。
 そのために、翔鶴飛行隊長新郷英城大尉は、「翔鶴、瑞鶴」の零戦二九機、艦攻三機を率いて、二十八日ブカ基地に進出した。ブカ島はラバウルの南東約一六〇カイリの距離にあり、それだけガ島に近い。
 また、二一航戦(鹿屋空、東港空)は南西方面部隊から除かれ、南東方面部隊に編入され、続いて九月一日には、二三航戦三空戦闘機隊の一部(約一八機)をラバウルに派遣するよう発令された。
 八月十九日木更津を出発した二六航戦六空の戦闘機隊(飛行隊長小福田租大尉指揮)一三機が、八月三十一日ラバウルに到着している。
 このような措置がなされても、航空機材、特に一号零戦の集中は困難であった。使用可能兵力は少なかったが、基地航空部隊は全力を挙げてガ島方面の敵航空機の撃滅掃討うぃ続けることになった。
 八月二十六日、ラバウルを発進した陸攻一六機は、零戦九機の掩護の下に、ガ島を爆撃した。零戦隊はF4F十数機と三〇分間空戦、撃墜一〇機(うち不確実一)と報じた。陸攻隊も爆撃直後、F4F十数機と交戦、四機撃墜(うち不確実二)と報じている。わが方は、陸攻二機自爆、二機被弾不時着、九機被弾、零戦は三機自爆、一機が不時着大破した。台南空のエースの一人笹井醇一中尉が撃墜されたのはこの戦闘中である。
 八月二十九日、ブカ基地の空母零戦隊二二機は、ラバウルからの陸攻一八機と合同してガ島を空襲した。零戦隊は在空の敵八機と交戦、四機撃墜(うち不確実一)を報じた。わが方は零戦、陸攻各一機が自爆している。
 この日B17四機がブカ基地に来襲、零戦四機被弾。
 八月三十日、この日の夜、陸軍の川口支隊の一部がガ島タイボ岬に上陸することになっていた。そこで、二次にわたってガ島飛行場を攻撃した。
 第一次攻撃隊は、空母部隊零戦一八機が〇九四五ガ島飛行場を空襲、積乱雲の上下でP400二〇機、F4F数機と交戦した。わが方の損害は指揮官機を含む九機が未帰還、一機が不時着し、帰還機のみの戦果、撃墜一二機(うち不確実二)を報じた。指揮官新郷大尉は、被弾によりエスペランス岬沖に不時着水して残存のわが設営隊員に救助されている。
 第二次攻撃は、ラバウルの陸攻一八機、零戦七機と空母の零戦六機がガ島に進撃、陸攻隊はルンガ岬沖で高速輸送駆逐艦「コルホーン」を撃沈した。ガ島飛行場に空地共敵機を認めず、被害もなかった。

P400エアコブラ

 三十日夜には陸攻隊、三十一日と一日には陸攻隊と零戦隊がガ島に進撃したが、途中の天候不良のために引返した。このように、途中の天候によって引返すことも少なくなく、航空撃滅戦の成果はなかなか上がらなかった。出撃して空戦が行われた日には、零戦隊は必ずといってよい程被害を出した。その中には、歴戦のエースも含まれている。
 九月二日、ラバウルの陸攻一八機、零戦八機と空母の零戦一三機が〇六四五ブカ基地上空で合同し、〇九三五ガ島飛行場に突入した。陸攻隊は爆撃直後F4F七機と交戦し、三機が被弾した。空母零戦隊は敵機四機を認めたが、雲のために逸し、空戦しなかった。ラバウル零戦隊は、陸攻隊を攻撃しようとしたF4FとP40約十数機を撃壤し、F4F二機撃墜うぃ報じ、わが方は自爆、未帰還各一機を出している。
 この日のガ島攻撃終了後、空母部隊の零戦隊はラバウルに帰投し、九月四日艦攻と共に母艦に収容された。二九機の零戦隊は一五機に減っていた。僅か三日間の出撃で虎の子的存在の空母戦闘機隊は半減してしまった。
 九月五日、ラバウルの陸攻二六機、零戦一五機がガ島上空に突入し、敵戦闘機十数機と交戦、陸攻隊三機、零戦隊が三機の撃墜を報じ、わが方も陸攻一機を失った。
 戦史叢書「南東方面海軍作戦<2>」の米側資料ロバート・シェロッド著「第二次大戦海兵隊航空史」から当時の記録を抜粋する。

 「八月二十日、最初にガ島に進出した飛行機は海兵隊の艦爆SBD−3一個飛行隊、戦闘機F4F−4一個飛行隊であったが、二十二日及び二十七日には陸軍航空部隊の戦闘機P400一四機が進出した。二十四日には第二次ソロモン海戦で損傷、修理のため帰投した『エンタープライズ』のSBD一一機が増援され、三十日には海兵隊SBD、F4F各1コ飛行隊が増援されて、三十日現在の在ガ島使用可能機は六四機となっていた。P400は空戦性能不良のため被害が多く、この時点では三機に減っており、もっぱら偵察、陸戦協力に使用された。F4F−4も零戦との格闘戦に入ることを避け、上空からの一航過で日本軍の爆撃隊を攻撃離脱し、零戦に追跡された場合は、直ちに他の一機が救援できるように二機一組をもってする戦法を採り、この戦法は終戦まで続けられた。
 九月一日には海兵隊建設大隊(シー・ビーズ)がガ島に進出してきて、機械化による飛行場の整備拡張作業を開始し、九月二十五日にはB17が使用可能となった。
 ガ島の生活環境は不良で、マラリア、下痢患者が続出した。日本軍の夜間爆撃や砲撃で睡眠も妨げられた。しかし、連合軍はよく整備された警報組織を持っており、日本軍機の来襲を事前に察知できた。また、ミッドウェー海戦以来零戦との戦闘には不安を感じていた海兵隊のパイロットも、F4F−4は火力、防御力共に零戦より優れていることを次第に悟るようになり、自分の飛行機を信頼し、自身を持つようになった。(中略)
 日本軍は八月下旬以来ラバウルの飛行機の大部分を注ぎ込み、ガ島に対する航空攻撃を強化してきたが、米軍の空母、ガ島の戦闘機、対空砲火によって損害を受け、航空優勢を獲得するには大きな困難があった。米軍にとって有利な一大要素は距離であった。すなわち、米軍は自分の飛行場の上空及びその周辺で作戦するのに反し、日本軍はラバウルから五六〇カイリ、ブカ基地から四〇〇カイリの飛行をしなければならなかった。このため、米軍機は日本軍機が退避すればすぐ着陸して、パイロットを節約できたのに対し、日本軍機はガ島上空に長時間滞在することができず、帰投のための燃料を搭載した重い機体で戦闘しなければならなかった。」

 ガ島への陸軍部隊の輸送は、鼠輸送(駆逐艦によるもの)によって行われ、四コ大隊から成る川口支隊は、八月二十九日から九月四日までの間にタイボ岬付近に上陸した。これと並行して他の一コ大隊は、蟻輸送(大発によるもの)でエスペランス岬付近に上陸した。
 川口支隊の飛行場攻撃に対する基地航空部隊の協同作戦は、九日から開始された。
 川口支隊の要望に応えて、攻撃開始前のガ島航空攻撃は、九月九日から十二日まで連日実施された。零戦一五機、陸攻二五〜二六機は、艦船攻撃一回、飛行場攻撃一回、敵陣地攻撃二回を行っている。この間、ガ島上空における敵F4Fの活動は極めて活発で、毎回激しい空戦を繰り返し、零戦隊は多数の撃墜を報じたが、わが方の損害も少なくなく、特に陸攻隊の損害が多い。
 十三日早朝、川口支隊も飛行場攻撃の状況を偵察するため、陸偵二機と掩護零戦九機(台南空)が、ガ島上空に進入した。味方が突入した形跡は認められなかった。掩護零戦隊はF4F二十数機と交戦し、敵機九機以上の撃墜を報じたが、零戦一機自爆、三機が未帰還となった。
 この日の夜、約一コ旅団の兵力(約三、〇〇〇名)の川口支隊は、米海兵隊一コ師団(約一五、〇〇〇名)に対して夜戦を決行したが、失敗に終わった。川口支隊が使用した火砲はわずか山砲一門、迫撃砲二門であったという。
 一方、わが海上部隊は、潜水艦でガ島を包囲し、巡洋艦、駆逐艦で毎日のように泊地の敵艦船と陸上基地を砲撃した。米軍はこれを「東京急行」と呼んだ。ガ島周辺の海上は、夜は日本軍が支配し、日出後はガ島ヘンダーソン飛行場の航空兵力を持つ米軍が支配した。八月三十一日には、空母「サラトガ」が伊号第二六潜水艦によって珊瑚海で雷撃されて大破し、九月十五日には空母「ワスプ」が伊号第一九潜水艦により撃沈されている。これで太平洋で活躍できる米空母は「ホーネット」一隻だけになってしまった。
 八月下旬から九月上旬にかけて発令された基地航空兵力の南東方面集中も軌道に乗りつつあった。九月十一日には「雲鷹」が輸送してきた六空一号零戦一二機がラバウルに到着し、戦列に入っている。十七日には、三空派遣零戦二一機(飛行長榊原喜与二少佐)がラバウルに、この頃鹿屋空派遣零戦九機(飛行隊長伊藤俊隆大尉)がカビエンに到着した。九月二十日現在ラバウル方面にあった使用可能機は、一号零戦四五機、二号零戦二六機、陸攻三四機、艦爆五機陸偵一機、大艇六機である。ラバウルでは陸攻用として西飛行場、戦闘機、艦爆用として東飛行場を使用したが、やや過集中の状況であり、また、ガ島までの距離が余りにも遠過ぎるため、ブカよりもさらにガ島に近いブイン基地設営を始めた。しかし、設営能力は極めて低く、工事は遅々として進まず、航空兵力運用の隘路となった。なお、米側資料によれば、九月十七日現在の在ガ島米航空兵力はF4F二九、SBD二六、TBF五、P400三計六三機である。
 川口支隊の攻撃失敗以来九月二十六日まで、天候不良のため、ガ島航空攻撃を実施することができなかった。九月中旬以降、ラバウル、ブナ、ラエに対する敵機来襲は激化してきた。
 九月二十七日零戦三八機、陸攻一七機、二十八日零戦四〇機、陸攻二五機の戦爆連合でガ島攻撃を実施した。両日の被害は、陸攻七機自爆及び未帰還、四機不時着、全機被弾、零戦一機自爆、四機被弾という大きなものである。ガ島飛行場周辺には高角砲が急増し、対空砲火が強化されていた。
 この両日における陸攻隊の大損害を受けた原因と対策について研究会が開かれた。原因は、要するに、戦闘機の直掩技量が伴わないということである。
 九月二十九日の攻撃では、前日の検討結果に基づき、新戦法を採った。零戦二七機、陸攻九機がガ島に向かって敵戦闘機の邀撃を誘い、陸攻はガ島の手前六〇カイリ付近から反転し、零戦はそのままガ島上空に突入した。敵戦闘機約三〇機と空戦してF4F一一機(うち不確実三)、SBD一機撃墜を報じ、わが方は一機未帰還、一機不時着の損害を出している。
 十月一日付で草鹿任一中将が基地航空部隊指揮官兼南東方面部隊指揮官となった。
 この頃、ガ島をめぐる攻防戦は、日米両軍の本格的な決戦の様相を呈していた。ガ島の奪回は、初期大本営が予想したのと違って容易なものではなかった。連合艦隊は、十月四日、高速船団輸送からの上陸作戦に引き続き行われる総攻撃の作戦計画を発令した。
 ガ島輸送支援のために開始したガ島航空撃滅戦も、十月上旬にyは、二日と三日の二回実施したに過ぎず、わが被害も大きかった(零戦自爆及び未帰還一〇機、四機大破)
 十月七日、六空零戦が「瑞鳳」によって輸送され、二六機がラバウルに進出した。十月九日現在のラバウルの戦闘機使用可能機は一号零戦四三機、二号零戦三六機であった。
 十月十一日のガ島攻撃は、まず零戦隊が進攻して敵戦闘機を上空に誘出して空戦を強制し、次いで陸攻隊が敵機の着陸時を狙って爆撃するという二段攻撃を図った。
 第一次攻撃隊の零戦一七機は、誘導の陸攻隊(九機)がルッセル諸島付近で反転した後、ガ島飛行場上空に突入した。四五分後、零戦三〇機の援護の下に陸攻四五機が突入した。しかし、第一次攻撃隊は敵機五機と空戦し一機撃墜を報じたに過ぎず、第二次攻撃隊もまた大部分は密雲のために爆撃できず、一部が爆撃したが効果不明であった。掩護零戦隊は五機撃墜(うち不確実三)を報じた。目的を達成できなかったのは、敵がわが攻撃隊を事前に察知し、退避したためである。
 この日、「日進、千歳」は輸送駆逐艦の緊密な護衛の下にガ島への輸送を実施した。ブカに進出していた六空の零戦全力がこの輸送部隊を上空直衛している。最終直は、日没後まで直衛したのち、駆逐艦のそばに着水する計画であったが、夜間の水面高度判定は極めて難しく、六機のうち二名即死、二名重傷を出した。ベテラン・パイロットを失ったのは残念であった。この日は敵機の来襲は全くなく、輸送は無事成功したが、このような無理な任務が計画され、実施されるほど戦局は厳しかった。
 この夜、ガ島飛行場砲撃任務を持った六戦隊(重巡三隻)は突然米巡洋艦隊の先制攻撃を受け、「古鷹」と駆逐艦一隻は沈没し、司令官は戦死し、ガ島砲撃を断念した。このサボ島沖海戦では、米艦隊はレーダー射撃を実施している。本海戦の結果、日本海軍はいままで誇ってきた夜戦に対する自信に動揺をきたすことになった。
 十月十三日夜半、栗田建男中将指揮の三戦隊の戦艦「金剛、榛名」、駆逐艦六隻がガ島に肉迫し、四〇分にわたる猛撃を加え、飛行場は一面火の海と化し、滑走路を滅茶苦茶にし、小型機の半分を破壊している。翌十四日も二回にわたる航空攻撃と、重巡「鳥海、衣笠」による夜間攻撃を行った。ガ島の航空基地は、日本軍の艦砲射撃によって焼き払われ、航空燃料と爆弾が極度に不足した。
 わが軌道部隊の零戦隊は、十五日朝高速輸送船団の上空警戒を行った。同船団は、ガ島泊地において熾烈な敵機の攻撃を受けたが、揚陸に成功した。
 日本軍の守備兵力は二〇、〇〇〇名近くになった。これに対抗する米軍兵力は約二三、〇〇〇名であり、その大部分は、戦闘に疲れ、マラリアに悩まされた海兵隊である。
 ここで、ニミッツ提督は、ゴームリー中将を南太平洋部隊から解任し、その後任に積極的で勇猛なハルゼー中将を任命した。
 十月十七日早朝、わが機動部隊二航戦は、ガ島敵飛行場から一八〇カイリの地点に進出し、「隼鷹」零戦九機、艦攻八機、「飛鷹」零戦九機、艦攻一〇機の攻撃隊はルンガ泊地に突入、飛鷹隊がホノルル型軽巡を、隼鷹隊が駆逐艦をそれぞれ爆撃したが、いずれも命中しなかった。この間、艦攻隊の掩護に当った零戦隊はF4F二三機と空戦、一三機撃墜を報じている。
 この攻撃で隼鷹隊艦攻八機が全滅した。事前に察知していたF4Fが、雲を巧みに利用して艦攻隊を奇襲したので、隼鷹零戦隊は掩護することができなかった。八〇〇キロ爆弾を抱いて水平爆撃を行う低速の九七艦攻隊は、敵戦闘機にとってはまたとない好餌であった。この時の隼鷹飛行隊長志賀淑雄大尉の戦後の回想が第五章に掲載される。
 ブイン基地は十月初旬概成し、十月十五日零戦二五機、艦爆一一機が進出した。ブイン基地からガ島までの距離は三〇〇カイリ余りで、零戦で二時間足らずとなり、ガ島飛行場上空における滞空可能時間は約一時間半となった。また、二号零戦でもガ島で十分な空戦時間を持てるようになり、航空作戦上の価値が極めて大きくなった。しかし、敵地に近いだけに、B17等敵爆撃機が連日連夜のように来襲するようになった。
 基地航空部隊は、十月十七日から連日ラバウル、ブカ、ブインを基地として、零戦隊でガ島上空の制空を実施するとともに、陸攻隊でガ島飛行場及び周辺敵陣地を爆撃している。
 南太平洋海戦 当初わが陸海軍が楽観視していたガ島奪回作戦は、日を追う毎に困難になった。ガ島を失えば、ガ島は連合軍の反攻の足掛りとなる戦略的重要さが浮彫りになった。補給地点が延びきったところで、陸海軍は半ば面目にかけて、消耗を重ねて、死闘を続けている。十月二十四日、陸軍第二師団は夜襲を開始し、二二三〇飛行場占領を打電してきた。この電報は三時間後取消されたが、取消し電報を受信しなかった基地司令部は、早速二十五日早朝、飛行機隊を進出させた。六空戦闘機隊が着陸のために飛行上場空を旋回中、地上から射撃を受けたので、確認すると、飛行場は依然敵側にあることが判明し、退避したという一幕もあった。
 十月二十六日黎明時から夜にかけて、空母対空母の海戦が行われた。これが南太平洋海戦である。
 これより先二十四日、二航戦(司令官角田中将)は、零戦、艦爆各一二機でガ島の攻撃を行っていた。二航戦の「飛鷹」は二十日火災のために高速発揮不能となり、トラックに回航しているので、二航戦の空母は「隼鷹」一隻となっていた。飛鷹飛行機隊は二十三日ラバウルに進出した。なお、二航戦は近藤中将の前進部隊に編入されていた。
 近藤中将は、二十五日夕刻から南下を始めていた。南雲機動部隊は、その東方一〇〇カイリを同じく南下していた。二十六日〇〇五〇、敵機PBYが突如「瑞鶴」付近に投弾したので、初めて機動部隊本隊が触接されていることがわかり、〇一三〇反転北上した。
 索敵機は〇四五〇、本隊の一二五度二一〇カイリに敵空母発見を報じた。ところが、この四番索敵線機は、自己符号を誤り、一番線のものを使用したので索敵線と発見位置が喰い違っていた。その頃から対空通信が不良となり、確認がとれず大混乱を生じた。他の索敵機からも敵機動部隊発見の報告が打電されたが、母艦に到達しなかった。本隊は直ちに接触のため二式艦偵を発進させたが、搭乗員に誤った敵位置を与えたので、敵を発見できず、全く役に立っていない。
 わが機動部隊を発見したPBYの報告は、遅れて、〇三一二米機動部隊に到着している。この少し前の〇三〇〇、哨戒機から発見報告のないままに、「エンタープライズ」から一六機の急降下爆撃機SBDが索敵のために発進した。二機一組になっており、各機は五〇〇ポンド爆弾一発を携行している。このSBDのうち二機は〇四一七わが前衛を発見し、他の二機は〇四五〇わが機動部隊の空母群を米機動部隊の北西二〇〇カイリに発見した。〇四五二、上空直衛中の零戦(当時各艦三機、計九機)がSBD二機を撃墜したが、〇五四〇SBD二機が突如「瑞鳳」に急降下爆撃した。「瑞鳳」は発着不能となり、トラックに向かった。この空戦で、わが方は「瑞鳳」零戦三機を失っている。
 米機動部隊は、索敵機のわが機動部隊発見の報により、〇五三〇から〇六一五の間、三波の攻撃隊計七三機を発進させた。
 「瑞鳳」が被爆する一五分前〇五二五、一航戦第一次攻撃隊は、「翔鶴、瑞鶴、瑞鳳」の三艦から、零戦二一、艦爆二一、艦攻二〇(雷装)計六二機で発進した。指揮官は翔鶴飛行隊長村田重治少佐、戦闘機指揮官は瑞鶴飛行隊長白根斐夫大尉である。
 攻撃隊は、〇六三〇敵艦爆一五機とすれ違ったが、戦闘機隊指揮官はこれに気付かなかった。これは、急降下爆撃機SBD一五機、雷撃機TBF六機、戦闘機F4F八機から成る「ホーネット」発進の米第一次攻撃隊で、「翔鶴」に来襲したものと推定される。
 この一〇分後、攻撃隊はさらにSBD三機、TBF八機、F4F八機と遭遇した。「エンタープライズ」から発進した攻撃隊である。日高盛康大尉の指揮する瑞鳳零戦隊九機はこれを攻撃し、その半数を撃墜した。しかし、機銃弾を射ち尽くしたので、敵方への進撃を断念し、母艦に帰投した。この攻撃で味方空母に向かう敵機を蹴散らしたが、このために攻撃隊は掩護の零戦数が一二機になり、苦戦を強いられることになる。この空戦で、瑞鳳零戦隊は二機自爆、二機未帰還、一機被弾大破の損害を出している。
 〇六五五、攻撃隊は敵空母部隊を発見した。これはホーネット隊で、「ホーネット」を中心に重巡二隻、防空巡洋艦二隻、駆逐艦六隻から成る、緊密な連携のとれた輪形陣をつくっていた。その上空にはF4F三八機を配備していた。この北西一〇カイリにエンタープライズ隊がいたが、〇七〇〇頃地域的なスコールの中に入って、日本の攻撃隊からは隠されていた。
 〇七一〇、艦爆隊がまず急降下を開始した。F4Fはすかさず先頭の第一中隊に襲いかかり、たちまち空戦が始まったので、第二中隊が先に突入することになった。村田少佐の雷撃隊はその機に乗じて、敵空母の両側から接敵し挟撃した。
 本攻撃によって敵空母に二五〇キロ爆弾六発以上、魚雷二本命中、「ホーネット」は火災発生、右に傾いた。火を発した艦攻一機は艦首正面から体当たりして左舷前部砲台に突入自爆した。被弾した艦爆一機は煙突に突入自爆した。この戦闘中に駆逐艦に突入自爆した艦攻、艦爆各一機が認められたが、米側資料には被害の記録がない。
 敵の防御砲火は熾烈で、輪形陣の全艦が一斉に回避しながら砲火を指向する程、統一指揮されているように認められた。
 わが制空隊の零戦一二機は、死闘を続けて攻撃隊を掩護したが、F4Fの数は零戦隊の三倍以上の優勢で、攻撃終了後もわが攻撃隊に喰さがってきた。零戦隊は敵上空においてF4F一八機、SBD二機を撃墜、艦爆隊もF4F二機を撃墜したと報じている。
 この攻撃で、わが方は零戦五機、艦爆一七機、艦攻一六機(うち不時着水零戦二、艦爆五、艦攻六)を失った。わが海軍雷撃隊の至宝村田重治少佐は、魚雷を命中させた後、被弾のため壮烈な自爆をし、南太平洋に散った。
 機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、直ちに第二次攻撃隊の準備にかかり、「翔鶴」から零戦五機、艦爆一九機を〇六一〇に発進させ、「瑞鶴」から零戦四機、艦攻一六機を〇六四五に発進させた。翔鶴隊の指揮官は飛行隊長関衛少佐、零戦隊指揮官は飛行隊長新郷大尉、瑞鶴隊の指揮官は飛行隊長今宿滋一郎大尉、零戦隊指揮官は重見勝馬飛曹長である。
 「翔鶴、瑞鶴」各艦毎に単独の攻撃隊を編制したのは、雷爆連合攻撃隊を編制する間に、敵機の攻撃を受ける虞れがあり、巧緻を策して戦機を失ったミッドウェー海戦における苦い戦訓によるものである。
 第二次攻撃隊は、翔鶴隊が〇八二〇から、瑞鶴隊は〇九〇〇から、エンタープライズ隊を攻撃した。この隊は空母一隻、戦艦一隻、重巡二隻、駆逐艦八隻で輪形陣を構成していた。戦艦は「サウスダコタである。」
 両隊ともF4F十数機の邀撃を受け、さらに敵の凄まじい対空砲火によって大損害を出した。「エンタープライズ」と「サウスダコタ」は、ハワイで修理中に四〇ミリ四連装機銃を新たに搭載していた。これによって、母艦の対空防御に役立つことを決定的に実証した。「サウスダコタ」は二六機を撃墜したと報じている。
 「エンタープライズ」は、飛行甲板に三発が命中、一発は至近弾となったが、戦闘には支障なかった。
 わが方の損害は大きかった。自爆・未帰還零戦一、艦爆一〇、艦攻九、不時着水零戦一、艦爆二、艦攻一計零戦二機、艦爆一二機、艦攻一〇機である。
 わが機動部隊本隊の西方にいた近藤中将の前進部隊は急行し、〇七一四、距離二八〇カイリで「隼鷹」から第一次攻撃隊を発進させた。この二航戦第一次攻撃隊指揮官は隼鷹飛行隊長志賀大尉で、零戦一二機、艦爆一七機で編制されていた。
 攻撃隊は、スコールの中に別の空母を発見、〇九二〇この空母「エンタープライズ」を攻撃したが、雲があるため緩降下しなければならず、防御砲火の格好の目標となった。一機だけが「エンタープライズ」に至近弾を投下し、小被害を与えた。戦艦と防空巡洋艦に各一発命中した。制空隊は、敵機一二機の撃墜を報じた。
 この攻撃で、艦爆一一機(自爆九、不時着水二)を失っている。
 一方、米機動部隊は、SBD一五、TBF六、F4F八計二九機の第一次攻撃隊を「ホーネット」から、〇五三〇に発進させた。次いで、SBD三、TBF八、F4F八計一九機の第二次攻撃隊が、〇六〇〇「エンタープライズ」を発進した。SBD九、TBF九、F4F七計二五機の第三次攻撃隊が〇六一五「ホーネット」を発進した。合計七三機が、時間と燃料の関係から三波に分かれていた。SBDは、一、〇〇〇ポンド(四五〇キロ)爆弾を携行していた。
 〇六四〇、旗艦「翔鶴」のレーダーは南東一四五キロに敵機群を捕捉した。〇七一八頃、「翔鶴、瑞鶴」の上空直衛機零戦一五機は米第一次攻撃隊の「ホーネット」のSBD群を邀撃し、一機を撃墜し、二機を撃退した。SBD一二機は雲中に隠れ、〇七二七積乱雲をかすめながら「翔鶴」に殺到してきた。この時、大森茂高一飛曹の零戦はSBDに体当たり自爆している。
 SBD一一機は「翔鶴」に対して約二〇度の緩降下爆撃した。「翔鶴」は最初の三〜四弾はうまく回避したが、SBDが艦首方向から進入するようになってから、四発の爆弾が中部発着甲板と砲台に命中、飛行甲板と格納庫が中破して飛行機発着不能となり、火災を起した。火災は一二三〇には鎮火している。
 「翔鶴」と早朝既に傷ついた「瑞鳳」は退避した。翔鶴艦長有馬正文大佐は、「翔鶴」は損傷していても、「瑞鶴」に対する敵の攻撃を吸収できるから、現場に残すよう、南雲中将に涙を流しながら意見具申したが、容れられなかった。
 「ホーネット」を発進した米第一次攻撃隊のうち、TBF隊は早くからSBD隊と分離し、わが空母隊を発見し得ず、〇七〇〇わが前衛を攻撃した。「エンタープライズ」を発進した米第二次攻撃隊は、進撃途中、瑞鳳零戦隊によって壊滅的打撃を受け(前述)、攻撃に加わらなかった。「ホーネット」発進の米第三次攻撃隊も、日本空母を発見できず、〇七二〇前衛を攻撃している。
 東進中の前衛は〇七〇〇頃から敵攻撃隊の空襲を受け、〇七二五以降重巡「筑摩」は四発の爆弾を受け、〇八五〇トラックに退避した。当時上空直衛中の零戦二機は、敵雷撃機十数機を攻撃して四機の撃墜を報じている。
 二航戦は、第二次攻撃隊として零戦八機、艦攻七機を一一〇六に発進させた。当時「隼鷹」には。一航戦攻撃隊の帰還機一〇機を収容していて、瑞鶴飛行隊長白根大尉が指揮官となった。
 「瑞鶴」だけとなった一航戦は、第三次攻撃隊を零戦五機、艦攻六機(爆装)、艦爆二機で編成し、瑞鶴分隊長田中一郎中尉の指揮の下に一一一五発進させた。
 二航戦は、使用可能全機零戦六機、艦爆四機で第三次攻撃隊を編成し、一三三三発進させた。指揮官は志賀大尉である。
 航空攻撃は、二航戦第二次、一航戦第三次、二航戦第三次の順に行われた。敵空母を三隻(実際には二隻)とも全部撃破したと思われたが、攻撃はホーネット隊だけに集中した。
 これら三波の攻撃とも、防御砲火は熾烈であったが、空母上空には敵機を認めなかった。二航戦第二次攻撃では、艦攻二機自爆(防御砲火による)、零戦二機未帰還、同三機不時着水の損害を出している。
 わが艦隊は夜戦を企図して追撃に移ったが、炎上中の空母「ホーネット」を撃沈した外に敵を捕捉することができなかった。翌二十七日燃料が欠乏して追撃を断念し、三十日トラックに帰投した。
 この海戦では、ミッドウェー海戦の戦訓も生かされ、搭乗員の技量もなお高かった。しかし、強行偵察及び触接のために特別準備した二式艦上偵察機の錯誤及び通信不良のために目標を補足し得ず、敵艦隊の全貌の把握も攻撃目標の適正な配分も行えなかった。機動部隊は、戦闘概報で敵空母数を三隻とし、全部撃沈したと報じている。
 しかし、米機動部隊の損害は、米側記録では

沈没 空母「ホーネット」、駆逐艦一
損傷 空母「エンタープライズ」、戦艦一、重巡一、駆逐艦二
飛行機の損失 七四機

 となっている。
 本海戦においては、村田重治少佐、関衛少佐、今宿滋一郎大尉等、艦攻、艦爆隊の主用幹部の大部分が自爆戦死したことも、戦果確認を困難にした一つの要因であったと思われる。
 わが方は、「翔鶴、瑞鳳」の他に、重巡「筑摩」、駆逐艦二隻が大中破したものの、沈没したものはない。本海戦は、わが海軍の空母部隊が米海軍の空母部隊に対して互角以上にわたり合った最後の海戦となったが、飛行機の損失は九二機にのぼり、多くの練達の搭乗員を失ったのは極めて残念であった。
 ニミッツ提督は「ニミッツの太平洋海戦史」で次ぎのように論評している。

 「戦術的に見れば、サンタ・クルーズ諸島海戦(訳注 南太平洋海戦)と呼ばれるこの戦闘で米軍は敗退したが、これを長い眼で見ると、それは米国側の戦略的勝利となった。近藤中将は一〇〇機を失い、キンケイド提督は七四機をなくした。この相違は、数字そのものが示す以上に、日本側に不利であった。というのは、米国は急速に増大するパイロット訓練と飛行機生産計画によって、速やかに日本を凌駕できたからである」

十月二十六日、第二師団を主力とする陸軍第十七軍のガ島総攻撃は失敗に終わった。兵力、武器、食料を増強して、ガ島奪回を図ることになった。飛行場を奪回して、航空消耗戦から脱出しようと企図していた基地航空部隊の作戦は振り出しに戻った。ガ島航空撃滅戦を続行した基地航空部隊の兵力の消耗は激しく、多数の優秀な搭乗員を失い、そのうえ陸軍部隊の総攻撃の失敗により、士気も沈滞しがちであった。十月三十一日現在の基地航空部隊の飛行機は、一号零戦二七機、二号零戦二四機、陸攻六四機、艦爆一〇機、この外に飛鷹派遣隊零戦一六機・艦爆一七機及び飛行艇、陸偵が若干あった。
 そこで、草鹿中将は戦力発揮のため、部隊の兵力整理の方針を決めた。二五航戦(二五一空<台南空>、七〇二空、八〇一空)は十一月十二日内地に帰投した。戦闘機隊は、二一航戦(二五二空<十一月九日に進出>、二五三空<鹿屋空から分離>、五八二空)と二六航戦(二〇四空<六空>)が、この方面の作戦を担当することになった。
 陸軍第十七軍は、次のガ島総攻撃を成功させるために、一三、五〇〇名から成る第三十八師団の主力を一一隻の輸送船団でガ島に上陸させることにした。
 基地航空部隊は、この船団輸送に備えて、零戦隊によるガ島航空撃滅戦を発令したが、十一月六、七、八、九日いずれも天候不良のため実施していない。中部ソロモンにブインのほか航空基地を持たない戦略態勢の不利はどうすることもできなかった。十日ようやく零戦一八機がガ島に進攻したが、敵機は退避し、F4F二機、B17一機を攻撃しただけである。
 十一月十一日、在ブイン飛鷹隊の零戦一八機、艦爆九機が〇七四〇ガ島に突入、敵機約三〇機と交戦しつつ、輸送船一隻を小破し(米側資料)、敵戦闘機二五機(うち不確実五)の撃墜を報じたが、わが被害も大きかった。次いで、〇九三〇、零戦二六機、陸攻二五機がガ島飛行場攻撃を実施している。
 十二日早朝、零戦三〇機、雷装の陸攻一九機がルンガ泊地に突入、敵艦船に肉迫攻撃を敢行し、米側資料によれば、魚雷一本が重巡「サンフランシスコ」の後部射撃指揮所に命中、他に輸送船三隻を小破させた。敵機二〇機以上撃墜を報じたが、陸攻三機自爆、同九機未帰還、同五機不時着、無事帰投し得た陸攻は二機に過ぎない。

 第三次ソロモン海戦 十一月十二日深夜、ガ島飛行場砲撃の任務を持った阿部弘毅中将の率いる戦艦二隻(「比叡、霧島」)、軽巡一隻、駆逐艦一四隻から成る挺身攻撃隊は、ルンガ泊地沖で米警戒部隊(巡洋艦五、駆逐艦八)と遭遇、三〇分にわたり混戦乱闘を続けた。軽巡二隻、駆逐艦四隻を撃沈し、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦三隻に損傷を与えた。わが方も戦艦「比叡」大破、駆逐艦三隻を失い、他に軽巡一隻、駆逐艦六隻が損傷している。舵機故障のため戦場を離脱できなかった「比叡」は放棄され、翌日夜サボ島北方で沈没した。この日「隼鷹」は零戦二六機、基地航空部隊は零戦一六機で「比叡」の上空直衛を行っている。
 最も期待されたガ島飛行場砲撃が実施できなかったので、連合艦隊司令長官は十三日未明輸送船団の揚陸を十四日に延期するとともに、同日朝近藤中将の前進部隊に対し、十四日ルンガ付近残敵掃討及びガ島飛行場砲撃を実施するよう下令した。
 そこで、輸送船団の露払いとして、十三日夜、支援隊の重巡「鈴谷、摩耶」は九八九発の砲弾を新旧両飛行場に叩き込んだ。両飛行場は火炎を起し、約一時間にわたって誘爆した。米側資料によれば、急降下爆撃機一機、戦闘機一七機が破壊し、戦闘機三二機以上が損傷した。が、飛行場は依然として作戦可能であった。
 支援隊は十四日朝主隊に合同した後、この両隊は二回にわたり「エンタープライズ」の艦上機十数機ずつの攻撃を受け、被害が続出した。「衣笠」が沈没し、重巡二隻、軽巡一隻が損傷している。
 駆逐艦一一隻の増援部隊(指揮官二水戦司令官田中頼三少将)の護衛を受けた、一一隻から成る輸送船団は、十四日日出直後、ショートランドからガ島に向かう中間海域で、敵索敵機に発見されてからは、終日敵機の空襲を受けた。上空直衛の基地航空部隊の零戦延三六機、水上機部隊の零観一四機の掩護も空しく、輸送船六隻が沈み、一隻が引返した(駆逐艦二隻護衛)。増援部隊の駆逐艦六隻の活躍により、四、八〇二名の乗船者と乗組員を収容した。猛将田中少将は、四隻の輸送船を駆逐艦四隻で護衛し、十五日未明タサファロング泊地に進入し、輸送船四隻を擱座させた。夜明けと同時に、敵機延三〇機の空襲と、陸上砲台及び敵巡洋艦、駆逐艦各一隻の砲撃を受け、全船火災を起こした。乗船中の第三十八師団将兵の約二、〇〇〇名は無事上陸したものの、軍需品等はわずかなものにしか過ぎなかった。
 十四日、この船団の上空警戒に当たった二五二空飛行隊長菅波大尉と飛鷹飛行隊長兼子正大尉は自爆した。
 十四日夜、近藤中将は自ら指揮して、戦艦「霧島」と、重巡「愛宕、高雄」を射撃隊として、軽巡一隻、駆逐艦九隻でガ島飛行場砲撃に赴く途中、ガ島とサボ島の間の狭い海峡において、米艦隊と遭遇した。米艦隊は新式戦艦「ワシントン」と「サウスダコタ」の先頭に駆逐艦四隻を配し、単縦陣でガ島西岸を北上していた。
 一時間に及ぶ戦闘で、敵駆逐艦三隻を撃沈し、戦艦一隻(「サウスダコタ」)、駆逐艦一隻に損傷を与えたが、わが方も「霧島」、駆逐艦一隻を失い、重巡一隻に軽微な損傷を受けた。ガ島飛行場砲撃は達成されなかった。
 十一月十二日から三日間にわたる一連の戦闘は、「第三次ソロモン海戦」と名付けられた。わが方は高速戦艦二隻をはじめ多くの犠牲を払ったが、今回の船団輸送も失敗に終わった。

 ガダルカナル島奪回断念と撤収作戦 十一月中旬のガ島に対する輸送船団の壊滅で、ガ島への輸送はますます困難になった。
 十一月三十日夜、糧食の輸送に当たった二水戦(司令官田中少将)の駆逐艦八隻が、ガ島とサボ島の間の海峡で、米麦を入れたドラム缶投入の直前、待ち伏せていた米警戒部隊遭遇し、夜戦となった。米艦隊の重巡四隻、駆逐艦四隻のうち重巡一隻が沈没し、他の三隻の重巡が大破した。日本側は駆逐艦一隻を失っただけで、水雷戦隊の夜戦能力を遺憾なく発揮した。この海戦は、ルンガ沖海戦(米軍ではタッサファロング岬海戦と呼称)と名付けられた。しかし、ドラム缶輸送は失敗に終わった。
 島の日本兵は飢えに襲われた。ガ島は「餓島」となりつつあった。
 一方、ニューギニア方面のマッカーサー軍は、十一月中旬ブナ南方に上陸し、ニューギニアの第一線は危機に直面した。ブナ南方近距離の処に三ヵ所の敵航空基地があることを発見した。ラバウルまでの距離約三五〇カイリ、南東方面の航空作戦に及ぼす影響は大きかった。
 連合艦隊はブナ周辺の敵飛行場群の存在を重視し、陸軍に対してブナ増援とその南方飛行場群攻略を提案するとともに、暗にガ島放棄の必要性をにおわせた。
 敵のブナ来攻後、敵船団攻撃、陸戦協力及びブナ周辺飛行場攻撃は、零戦と艦爆で連日実施されたが、ガ島攻撃で消耗した兵力では、十分な成果をあげることはできなかった。
 ブナ、ラエ、ラバウルに対するB17等敵爆撃機の来襲も連日のように行われた。零戦隊の戦いは日一日と苦しくなっていった。
 当時、既にガ島及びニューギニア方面とも敵航空兵力の増加、わが航空兵力の質量の低下により、彼我航空兵力の均衡が破れ、連合艦隊も基地航空部隊も前途の見通しが立たない状況となりつつあった。
 十二月一日現在の作戦可能機は、ラエに零戦七、艦爆八、ラバウルに零戦九、艦爆一五、陸攻一六、カビエンに零戦一七、陸攻一〇、ブインに零戦八、陸攻一〇、計零戦四一機、艦爆二三機、陸攻三六機であった。
 ガ島攻撃作戦の初期(八、九月)のわが航空部隊戦力ははるかに敵に勝っていた。十月頃も零戦は優れていた。当時、ブイン基地で六空飛行隊長として活躍した小福田大尉は、戦後その著書「指揮官空戦記」に、次のように回想している。

 「昭和十七年秋、私たちがブインに進出したころは、まだ敵の戦闘機に対し、充分な自信と実績をもっていた。たとえば、二十機対二十機ならば、必ず勝てる。味方が六割ぐらいの場合なら、互角の勝負というのが、当時の私たちの自信であり、目安であった。」

 ガ島航空撃滅戦はまさに航空消耗戦であり、これは人の補充と物の補給の戦いである。ラバウルからガ島まで五六〇カイリを往復して戦闘しなければならなかった零戦搭乗員の疲労はその極に達していた。
 また、機材の補給が間に合わないことが多く、小兵力で大兵力の敵機と空戦することが多くなるため、損害は多くなる。状況が困難な場合には、熟練搭乗員が使われるため、その戦死する比率が増えた。補充される搭乗員は未熟者が多いので、飛行隊全体の練度はますます低下する。この悪循環は急速に進む。
 熟練者にとっても、ソロモンはパイロットの墓場になっていった。その源を洗えば、零戦の生産量と搭乗員の養成数が航空消耗戦のテンポに合わない程不足していたことが明らかになる。従って、パイロットの交替は至難、休養すら与えられない状態であった。
 連合艦隊が決戦とみたこの作戦に、全海軍の第一線兵力を次から次へと投入しては消耗していったので、航空戦力は質量共に低下していった。
 十二月下旬を目途とした次期ガ島奪回作戦を成功させるためには、中部ソロモンに二〜三ヵ所の飛行場を急速設営して敵との間合いをつめ、展開可能兵力の増大を図り、陸軍航空兵力の進出をあいまってガ島の敵航空兵力を制圧し、所要の兵力を安全にガ島に送ることが先決要件であった。
 その一つがニュージョージア島の西北部にあるムンダ基地で、ガ島から一七〇カイリ、わが航空部隊の最南端基地となった。
 十一月下旬から飛行場の建設を始め、十二月十四日長さ一、〇〇〇メートル、幅四〇メートルの滑走路と、戦闘機三〇機を収容できる掩体を完成している。
 十二月二十三日、ブインからの零戦九機の支援下に、ラバウルから二五二空零戦二四機が進出したが、着陸途中に敵の戦闘機一〇機、艦爆九機、B17五機の奇襲を受けた。空戦が始まり、敵戦闘機、艦爆計一四機(うち不確実六)の撃墜を報じたが、わが方も零戦二機を失った。
 ムンダ基地は、翌二十四日には未明から終日戦爆連合の小型機五四機(四波)が来襲したのをはじめとし、連日にわたって空襲を受けている。零戦隊はその都度果敢に邀撃したが、消耗が甚だしかった。常駐基地として使用することができないので、進出してからわずか六日後、二十九日に、ラバウルに引揚げることになった。引揚げまで五機が増強されたにもかかわらず、零戦隊は三機だけになっていた。
 一方、ガ島ヘンダーソン基地には十一月後半には一層整備されて、三本の滑走路には鋼製マットが敷きつめられていた。所在機もB17八機を含む一二四機に増加した。
 十七年十二月に入って、南東方面の日米の戦略的態勢判断から、陸海軍ともガ島奪回は不可能であると認めざるを得なくなった。陸海軍とも、自らガ島撤退を提案することはしなかったが、遂に両者の意見は一致した。一八年一月四日、ガ島撤退の大命が下されたのである。
 陸海軍は撤収準備を進め、特にソロモン群島及びその周辺海域の飛行哨戒を重視しながら、ガ島の航空攻撃を開始することになった。
 一月二十日から二十三日まで連日、陸攻一〇機程度でガ島飛行場に対する夜間爆撃を実施している。
 一月二十五日朝、陽動隊陸攻一八機の誘導の下に、零戦七六機(二五二空、二五三空はラバウルから、二〇四空、五八二空はブインから発進)という今までにない大編隊でガ島に進攻した。
 途中で、二〇四空零戦隊二二機及び五八二空一八機が天候不良のため引返している。陸攻隊はルッセル島南方一五カイリの地点で引返し、零戦三六機がガ島上空に突入した。
 だが、敵機の反撃は少なく、戦果はF4F二機撃墜確実、B25一機、SBD一機、P38二機、P39一機いずれも撃墜不確実を報じたに過ぎない。零戦隊は、帰途天候不良のため、大部分がブインに着陸した。零戦一機自爆、四機不時着、六機が着陸時に大破し、陸攻一機も未帰還となっている。

P39エアコブラ

 一月二十七日には、陸軍航空部隊の一式戦五九機、軽爆九機がガ島に進攻し、撃墜六機の戦果を報じた。P38がルッセル諸島、ブラク島付近まで送り狼として追跡してきた。わが方の損害は自爆一機、未帰還四機で、成果は期待に沿わないものであった。
 陸海軍航空部隊は二月一日にも進攻したが、その後はガ島への進攻作戦を実施していない。
 双発双胴の奇異なスタイルをしたP38がソロモン方面に現れたのは十七年秋である。一千馬力級のエンジンを二機搭載し、零戦よりも旋回性能こそ劣ったが、特に高高度性能に優れ、高速で、航続力も零戦に劣らなかった。最初の頃は、零戦の格闘戦に巻き込まれるとボロボロ落とされ、「ペロ八」というあだ名がつけられた程である。一八年一月五日、ブインにB17五機、P38七機が来襲した際、P38全機が零戦に撃墜されている。そのうち、高高度性能と優速を活かして、高高度から優速で降下し、一撃離脱、急上昇する戦法をとるようになると、劣速の零戦搭乗員は切歯扼腕せざるを得なくなった。

P38ライトニング

 当時、零戦隊が最も苦手としていたのは大型爆撃機”空の要塞”B17である。弾丸が命中しても火災を起さず、容易には撃墜できなかった。燃料タンクの防御装置が良かったからである。対大型機攻撃訓練の機会も少なく、未熟者は遠距離から射撃し勝ちで命中しなかったのもその一因であろう。従って、B17に傍若無人に近い行動を許し、零戦搭乗員を口惜しがらせた。
 一月二十九日夕刻、ツラギの南東二四〇カイリを北西進する敵主力部隊(米側資料によれば、重巡三、軽巡三、軽空母二、駆逐艦八)に対し、陸攻三二機、翌三十日昼間陸攻一一機で雷撃し、大戦果を報じた。わが方の損害は、自爆及び未帰還一〇機である。米側資料によれば、重巡「シカゴ」が沈没、駆逐艦一隻が大破している。
 二十九日の攻撃で、七〇一空飛行隊長檜貝襄治少佐は敵艦に突入して戦死した。これが「レンネル島沖海戦」である。
 連合艦隊は、ガ島撤退に備え、瑞鶴飛行機隊を南東方面部隊に一時編入し、同隊の零戦二六、艦爆一七、艦攻二一計六四機が二十九日、トラックからラバウルに進出した。
 基地航空部隊のガ島進攻は、二十九日、三十日、三十一日三日間とも天候不良のため実施していない。
 このように、ガ島航空撃滅戦が不十分なまま、二月一日、四日、七日の三次にわたる撤収作戦が、駆逐艦を大動員して夜間実施された。
 基地航空部隊零戦隊は、二月一日撤収輸送開始から輸送部隊上空警戒に当たるとともに、二日以後連日ガ島南方海面に発見された空母を含む敵機動部隊に対し、陸攻隊と共に攻撃待機した。水上機部隊も、輸送部隊の上空警戒と前路警戒、夜間魚雷艇の掃討に大活躍している。
 米軍側は、日本軍の行動をガ島への増援作戦と誤判断し、空襲と魚雷艇による攻撃を行ったが、輸送部隊に与えた損害は、作戦開始前のわが方の予想よりはるかに少なかった。駆逐艦の損害は一隻沈没、二隻が一時航行不能になっただけである。
 撤収作戦は、天佑神助といわれた程大成功を収めた。収容した人員は、一二、八〇五名(戦史叢書、資料によって差がある)に及び、大本営の見積もりの二倍を超えるものである。
 連合軍は二月八日朝、ガ島エスペランス岬付近に放棄された日本軍の舟艇と補給品を発見して、初めて撤収を知ったという。

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