第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘


第二節 航空躍進時代と上海事変、支那事変での活躍
(昭和五年後期から昭和十六年末期までの約十年間)

1、航空軍備の大拡充

 昭和五年ロンドン軍縮条約が調印され、補助艦にも軍備制限が加えられることになった。その後の累次の軍縮予備会談でわが要求が容れられないため、ワシントン条約及びロンドン条約から脱退して、昭和十二年一月から無条約時代となった。昭和六年満州事変勃発、翌七年満州国独立、このため八年には国際連盟脱退の通告を発する事態になり、対外情勢は急速に悪化した。一方、米国は、日独伊防共協定調印、支那事変発生以後、相次いで海軍大拡張計画を打ち出し、さらに第二次大戦の勃発、日独伊三国軍事同盟の締結などに対応して諸種の対日経済的圧迫牽制策を強化するに至った。そこで、わが国はこれらに対応するため、軍備計画、特に航空増勢計画を推進することとなった。
 まず昭和五年に第一次補充計画を発足させたのを皮切りに、昭和十六年までに数回にわたり増勢計画を実施した。その中で航空関係は、合計で飛行隊二七一隊、空母十四隻、水上機母艦六隻、飛行艇母艦二隻から成る膨大なものである。
 しかし、海軍の主流には大艦巨砲主義が太平洋戦争開戦後までも根強く、「大和、武蔵」以後も同型艦がさらに二隻計上される状態であった。これに対して昭和十六年一月、航空本部長井上成美中将は「明治の頭で昭和の軍備を行うものである」と厳しく批判し、航空最優先の新軍備計画論を海軍大臣に提出したが黙殺されてしまった。早期に航空最優先に大転換されなかったことは残念なことであった。(第一節及び第二節一項「海鷲の航跡」の佐藤毅論文参照)

2、海軍機初の空戦と撃墜第一号

 昭和七年一月二十九日上海事変が起り、第一航空戦隊(「加賀、鳳翔」)が上海方面に急派された。
 二月五日「鳳翔」の三式艦戦三機(指揮官 所 茂八郎大尉)が上海付近の敵情偵察中、真如上空で敵のコルセア型戦闘機三機と交戦したが、雲中に逃した。さらに一○分後敵一機と交戦したが、これも逃してしまった。これが海軍航空史上初の空戦である。ちなみに、この敵機は、被弾が原因で再発進離陸直後に墜落している。
 二週間後の二月十九日にもボーイング社製戦闘機(F4B一)と空戦しているが、性能の良い敵に逃げられている。
 二月二十二日「加賀」の三式艦戦三機(指揮官 生田乃木次大尉)は、一三式艦攻三機(指揮官 小谷進大尉)と共に行動中、蘇州上空でこのボーイング機と交戦し、艦攻と共同攻撃の末、これを撃墜した。これがわが海軍の撃墜第一号である。このパイロットは、米人ロバート・ショートであることが後日判明した。我が方も、小谷大尉が機上で戦死した。
 三式艦戦が初の空中戦に参加したが、それよりも優れた敵戦闘機が出現したことは、わが海軍に衝撃を与え、戦闘機開発に大きな刺激となった。
 上海事変では「加賀、鳳翔」「能登呂」の各母艦搭載の三式艦戦、一三式艦攻、一四式三号及び九○式三号各水上偵察機が参戦活躍し、数次の空中戦闘もあって、戦術的にも技術的にも貴重な戦訓が得られた。

3、海軍航空機の自立、試製(試作)計画

 昭和五、六年頃までは、わが海軍の航空技術は、その多くは外国製を模倣して国産する域を脱していなかった。
 海軍はいよいよ航空機の開発充実に強力な施策を推進することになったが、なかでも日本航空技術史上特筆すべきことは、昭和七年四月一日横須賀浦郷に海軍航空廠の設立を見たことである。
 この頃は国を挙げて航空立国の気運が起り、報国号の献納が相次ぎ、急速に海軍航空自立の態勢が固められていった。当時の報国号の戦闘機は全て九○式艦戦で、昭和七、八年頃には運動性に富む本機の三機編隊が毎日横須賀上空を乱舞した。これは小林淑人、岡村基春、源田實をリーダーとする編隊飛行で、人呼んで「空中サーカス」といわれていた。
 海軍航空技術研究の総合機関である航空廠設立と相まって、海軍航空機の進歩発達に重要な基礎を作ったのは、わが国の技術者自らの手で作製する海軍航空機の試製(試作)計画である。
 昭和七年、初めて長期計画である「三ヵ年試製計画」を定めた。この計画は、当時技術部首席部員桜井忠武機関大佐と計画主任の和田操大佐が、昭和五年末から八年十月まで航空本部技術部長であった山本五十六少将の命によって立案したものである。
 同部長は、九試単戦の試作機要求性能に思い切った重点主義を採った。また、積極的に先進国の技術導入を図り、民間各社に競争試作を奨励し、まず技術の基礎を固めさせた。その結果、短期間に技術を一新させ、その後世界に誇り得る優秀機を続出させることになった。なお、昭和六年十一月に航空本部長に着任した松山茂中将の指導は、山本技術部長の功績を倍加させたといわれる。山本中将(九年進級)は、さらに十年十二月から一年間、航空本部長の職にあって指導に当たった。

 昭和七年以降海軍の試作した飛行機は次のとおりである。
(一)昭和七年試製計画
七試艦上戦闘機(不採用)、七試艦上攻撃機(不採用)、七試三座水上偵察機(九四式水偵)、七試双発艦上攻撃機(九三式陸攻)、七試大型陸上攻撃機(九五式陸攻)、一三式艦上攻撃機改造型(九二式艦攻) (注)七試とは昭和七年度試製計画機をあらわす。

(二)昭和八年試製計画
八試急降下爆撃機(九四式艦爆)、八試複座戦闘機(不採用)、八試二座水上偵察機(九五式水偵)、八試特殊偵察機(一機試作したのみであるが、海軍は遠距離陸攻の可能性の確信を得た)
(三)昭和九年試製計画
九試単座戦闘機(九六式艦戦)、九試艦上攻撃機(九六式艦攻)、九試夜間偵察機(九六式水偵)、九試中型陸上攻撃機(九六式陸攻)、九試中型飛行機(九九式飛行艇)、九試大型飛行艇(九七式飛行艇)、九試小型水上偵察機(九六式小型水偵)、九四式艦上爆撃機改造型(九六式艦爆)
(四)昭和十年試製計画
一○試艦上攻撃機(中島の九七式一号艦攻、三菱の九七艦攻二号艦攻)、一○試艦上偵察機(九七式艦偵、生産されなかった)、一○試水上観測機(零式水上観測機)
(五)昭和十一年試製計画
一一試艦上爆撃機(九九式艦爆)、一一試特殊偵察機(九八式水偵)、一一試水上中間練習機(不採用)、一一試機上作業練習機(製造費高で生産に入らなかった)

 これにより、一応設計の近代化を達成した。その性能も日本海軍独自の要求を満たしたもので、世界の技術水準に到達するとともに、将来の航空軍備充実に対し希望と自信を高めることができた。特に顕著な進歩は艦上機の充実であった。すなわち、九六式艦戦に続いて九七式艦攻、九七式艦偵、九九式艦爆と艦上機が一時に近代化して、複葉から全金属低翼単葉に更新したことである。

4、航空主兵、戦艦無用論

 「上空からの飛行機の攻撃に対しては軍艦は到底対抗できない。攻防力の強大を誇る戦艦といえどもそうである。海軍兵力の主力はもはや戦艦ではなく飛行機であるから、軍備の重点を戦艦から飛行機に転換すべきである」
 というのが、いわゆる航空主兵、戦艦無用論であって、技術の進歩、術力の向上によって飛行機の威力が大いに認められるようになった昭和十年頃から、航空関係者の一部の間に唱えられた主張である。
 九六式陸攻の優秀性が支那事変及び艦隊訓練で遺憾なく発揮されると、航空関係者の間から、持論である航空主兵、戦艦無用論が強く叫ばれるようになった。
 当時の海軍当局はこれを無視できず、空中兵力威力研究会を作り、航空部隊の持つ真の戦力を実験と理論の両面から究明したが、海軍の主流を動かすには至らなかった。
 その頃、海軍全般としては、海上作戦における飛行機の重要性を認めてはいたものの、海軍主流の伝統である大艦巨砲主義の思想は厳として揺がず、四十六センチ砲装備の大和級戦艦の建造を計画中であった。
 航空主兵、戦艦無用論の正しかったことは、太平洋戦争の緒戦において如実に示されたが、海軍主流はこの事実に対する認識が必ずしも十分ではなかった。開戦後の戦備は逐次航空重点に切り替えられ、作戦用兵の面においても航空は一段と重視されていった。しかし、徹底した航空主兵への思想転換の時期を逸してしまった。

5、戦闘機無用論

 海軍は伝統的に攻撃一点張りの戦術思想をとっていたため、初期の航空部隊では、戦闘機の価値は攻撃機よりも一段低く見られていた。昭和五年英国に留学した小林淑人大尉が戦闘機の重要性を主張して多少改善されたが、それでも他と肩を並べるまでにはならなかった。昭和八、九年頃から横空分隊長岡村大尉、源田大尉等が主唱した戦闘機無用論が生じ、攻撃機搭乗員もこれに同調した。
 このような考え方が起こったのは、次のような理由によるものである。
(一)攻撃機の性能が向上したため、戦闘機の攻撃運動が難しくなり、射撃する機会が少ない。
 速力に対する当時の要求性能は、九試陸攻(九六式陸攻)が一七○ノット、九試単戦(九六式艦戦)が一九〇ノット(堀越資料)であって、戦闘機は三〇ノット以上の速力差がないと攻撃運動は困難とされていた。昭和十年、九試陸攻と九〇式艦戦が模擬戦闘を実施した際、九〇式艦戦が劣速なために攻撃不可能となったことがあって、この理論が立証され、無用論に油を注ぐことになった。
(二)高速機に対する射撃はほとんど追尾の形になり、特に全金属製の機体に対しては七・七ミリ機銃では命中しても跳弾となり破壊力がない。
(三)大型機は、多数の旋回銃の集中威力により戦闘機を排除し得る。(攻撃機搭乗員の主張)
(四)戦闘機は、航続距離が短くて、空母の攻撃機に随伴できない。すなわち、攻撃機を掩護できない。

 このような理由により、戦闘機は廃止して、敵水上艦艇を破壊できる飛行機に替えるべきであるというのが無用論者の主張である。
 昭和十年には横空から、戦闘機兵力を減じ攻撃機兵力を増強すべしとの意見が提出され、軍令部、航空本部もこれに同意した。
 この結果、昭和十年から戦闘機搭乗員の養成比率は二年間減少し、また、下士官兵戦闘機搭乗員中から多数を艦上爆撃機搭乗員に転換させている。
 しかし、この無用論を一挙に吹き飛ばす悲劇的な事件が起こった。
 支那事変勃発後間もない昭和十二年八月十五日、第二航空戦隊の空母「加賀」は、舟山列島南海方面から広徳、蘇州方面に対し、艦攻、艦爆による攻撃を加えた。
 行動中敵戦闘機と交戦し、八九式艦攻は一六機中六機、九四式艦爆は一六機中一機を失った。艦攻二機、艦爆一機が抗州湾に不時着水したが、救出することができなかった。搭乗員二九名(うち一名は重傷ののち死亡)を失った。被害は甚大であった。
 運動性が劣る艦上攻撃機は、敵戦闘機に対し極めて脆弱であることが、この戦闘によって暴露した。
 この加賀攻撃隊の悲劇があった前日の八月十四日から三日間、九六式陸攻隊は荒天を衝いて渡洋爆撃を敢行した。しかし、わが方は三日間で、未帰還機九機、海没又は大破三機、搭乗員の戦死六五名の被害を出している。
 被害が大きくなったのは、悪天候下緊密な編隊を組めずに単機又は数機の順撃となって、昼間低空攻撃を敢行し、敵戦闘機と地上放火の攻撃に晒されたことが大因であって、開戦初頭の航空戦の実体を示すものであった。
 わずか三日間の攻撃で、作戦使用機数三八機のうち、人員二三%、機材三二%に相当する損失を出した。搭乗員の技量と使用機に対して、共に絶大な信頼を置いていた海軍中央当局も、初めて航空作戦の苛烈な実体を知り、併せて中国空軍の術力を再認識しなければならなくなった。
 「加賀」の攻撃隊と渡洋爆撃の九六式陸攻隊の被害の甚大さに、関係者は大きな衝撃を受け、航空作戦においては戦闘機の戦力が予想よりはるかに大きいことを思い知らされ、戦闘機無用論は単なる幻想として消え去ってしまった。

6、九○式艦上戦闘機、九五式艦上戦闘機の奮戦

 昭和十二年七月七日支那事変勃発直後、陸海軍航空協定が結ばれ、北支方面の敵航空勢力の撃滅は陸軍が、中支・南支方面のそれは海軍が主担当となった。
 七月十一日、特設航空部隊(戦時事変に際し特設されるもの)が次のように編成された。
第一連合航空隊
木更津航空隊(九六式陸攻二〇、済州島へ)
鹿屋航空隊(九六式陸攻十八、九五式艦戦一二、台北へ)
第二連合航空隊
第十二航空隊(九四式艦爆一二、九二式艦攻一二、九五式艦戦一二、陸偵二、周水子へ)
第十三航空隊(九六式艦爆一八、九六式艦戦一二、周水子へ)
第二十一航空隊(九五式水偵六、北支へ)
第二十二航空隊(九五式水偵六、中・南支へ)

支那事変初期に対処する海軍航空兵力は、この他に、一航戦(「龍驤、鳳翔」)、二航戦(「加賀」)が、第三艦隊司令長官の指揮下に入り、馬鞍群島方面に急遽進出することになった。空母の艦上戦闘機としては、「加賀」は九○式艦戦(九○戦)、「龍驤」と「鳳翔」は九五式艦戦(九五戦)を搭載していた。いずれも複葉機で速力も遅い旧式戦闘機である。しかし、搭乗員は闘志旺盛な練達の士が揃っていて、上海(陸戦隊本部、黄浦江のわが艦艇)の上空哨戒任務に当った。支那事変当初の両機種の戦闘機隊の奮戦を若干例紹介することにする(酣燈社「日本海軍戦闘機隊」を主として参照)。
 「加賀」の攻撃隊が大被害を受けた翌八月十六日、加賀飛行分隊長五十嵐周正大尉が九○戦六機を率い、江湾上空で敵戦闘機と交戦、うちコルセア一、ダグラス二計三機を撃墜した。
 翌十七日も「加賀」の豊田光雄空曹長の指揮する九○戦四機が、江湾上空で敵二機を撃墜した。「加賀」は八月二十二日待望の九六式艦戦(九六戦)六機を受領し、九月四日には飛行分隊長中島正大尉の指揮する九六戦二機がカーチスホーク戦闘機三機を、七日には五十嵐大尉の指揮する九六戦三機が太湖上空で敵五機を撃墜している。
 「龍驤」の戦闘機隊の初陣は八月二十二日で、兼子正中尉の指揮する九五戦四機は、宝山上空を哨戒中のカーチスホーク一八機を発見、六機を撃墜した。翌二十三日には鈴木實中尉が九五戦四機を率いて宝山上空を哨戒中、カーチスホークとP26戦闘機混成の二七機編隊を発見、激しい空中戦を展開し、九機撃墜の戦果を挙げている。
 鳳翔隊は八月二十五日岡本晴年中尉の指揮する九五戦三機が、上海上空でマーチン重爆二機と交戦、一機を撃墜した。
 当時、我が空母は馬鞍群島付近にあり、上海まで七〇〜一〇〇カイリの距離にあった。
 「加賀」は昭和十二年九月下旬佐世保に入港し、戦闘機を九六戦に更新、十月下旬から南支方面で作戦、その後一時上海に移動した。昭和十三年末広東攻略戦が終わるまで、台湾を前進根拠地として南支那要地の攻略を繰り返した。
 一航戦は九月二十日から三十日まで南支方面の作戦に従事した。とくに、九月二十一日の広東攻撃には、龍驤飛行隊長小園安名少佐が指揮して、第一波は一五機の九五戦(うち「鳳翔」六機)で、艦攻、艦爆一五機を掩護して進攻、カーチスホーク十数機と交戦、一二機(うち鳳翔隊が六機)を撃墜した。第二波も同規模の編成で進攻、敵一一機(うち鳳翔隊が五機)を撃墜している。「龍驤」は、十二年末に「蒼龍」とともに二航戦を編成した。三月中旬から約二十日間、十月にも広東作戦協力のため南支方面に行動した。戦闘機は九五戦が使用されている。

七、九六式艦上戦闘機の活躍

 既述したように、支那事変緒戦において、加賀艦攻隊と九六式陸攻隊の大被害は、戦闘機無用論を一挙に消滅させるとともに、海軍に大きな衝撃を与えた。特に陸攻は、本来太平洋作戦貴重な攻撃力として期待され、密かに準備訓練を行っていたものである。虎の子のようなこの兵力を対支作戦で消耗してしまうことは軍備上由々しい問題であると憂慮された。そこで、陸攻隊による強襲を緩和するよう指導するとともに、制空権獲得のための戦闘機の重要性と、攻撃隊に掩護戦闘機を随伴させる必要性を痛感した。これらの要求を満たす戦闘機は、生産開始後日が浅くて数少ない九六戦しかなかった。
 昭和十二年九月上旬頃は上海地区の制空権はおおむねわが手中にあったが、南京はなお中国空軍の一拠点として、約五〇機の戦闘機がここに集中し、対空防御は厳重であった。速やかにこの戦闘機を撃滅して、中支上空における完全な制空権を獲得し、首都南京に対する攻撃を実施することが、当時の航空作戦の一つの急務であった。これが南京制空作戦である。
 大連郊外周水子から大村に退いて待機中の第二連合航空隊は、上海の公大基地の概成を待って進出を開始し、九月十日同基地への移動を完了した。
 南京空襲の戦闘の主体となる九六戦は、第十三航空隊(一三空)の十二機、「加賀」の六機併せて一八機しかなかった。
 実際の空襲は、天候不良のために順延されて、九月十九日に決行されている。
 ○七三○頃から指揮官和田鐵二郎少佐の操縦する九六艦爆を先頭に離陸を開始した。艦爆は車輪も大きく脚も強固にできているので問題はなかったが、九六戦の離陸になってから、飛行場不良のため事故が続出した。九六戦は一八機から一二機に減ってしまった。
 二九機の艦戦、艦爆は、揚子江上予定地点で一六機の九五水偵と合同の上、南京上空に進撃した。この時の水偵の任務は艦爆の掩護である。
 一○〇〇頃南京の衛星基地である句容付近で、カーチスホーク戦闘機約一二機とボーイング戦闘機約六機が、艦爆隊の後尾にいる水偵隊に襲いかかった。水偵隊は四機がこれと応戦し、戦闘機隊四機を撃墜した。水偵隊も未帰還機一機を出している。
 その間に、戦闘機隊は南京上空に進入、ここで待機していた敵戦闘機二十余機と交戦した。一二機の九六戦は思い思いに手近な敵を求めて突進していった。編隊空戦ではなく単機戦闘であった。
 敵機の大部分はカーチスホークで一二・七ミリ機銃を搭載し、旋回性能は九六戦より若干良かったが、九六戦は垂直面の戦闘に持ちこみ、「ひねり」(第七章で詳述)の特技を存分に使って、わずか一〜二旋転の後には絶対優位の態勢を占めている。
 一五分間の戦闘で、戦闘機隊は二一機(うち不確実六)を撃墜した。この間艦爆隊の掩護に当っていた水偵隊も、艦爆隊が安全と見るや、敵戦闘機群と戦闘を交え、またたく間にその七機を撃墜した。
 これで戦闘機と水偵の両者は合計三二機(うち不確実六)を撃墜し、南京付近の上空から敵機を一掃し、一五分間南京上空を制圧したが、遂に反撃して来る敵機はいなかった。わが方の被害は、先に述べた水偵一機と艦爆三機計四機である。
 同日一五○○第二次制空隊発進、三二機(うち九六戦一○機)は一六一五頃南京上空に進入したが、邀撃してきた敵機はわずか一○機、その七機を撃墜、わが方の被害はなかった。この空戦後、制空隊は三○分間南京上空を制圧し、敵方に敗北感を与えた。この上空制圧が敵に与える精神的効果は極めて大きい。
 翌九月二十日以降二十五日までの間に、第三次乃至第十一次の南京空襲が行われた。第三次以降、毎回数機の敵戦闘機が現れて、わが攻撃隊に攻撃を加えて来たが、戦闘機隊の反撃によってその都度撃墜され、第七次以降南京上空には敵機影を見ることはなかった。
 十二年十二月二日に九六戦六機、艦攻八機で南京を攻撃し、南郷茂章大尉の率いる戦闘機隊はE16三〇機と交戦し、その一三機を撃墜した。当時中国空軍を実際に指導し指揮していたのは米陸軍航空隊の退役将校クレア・L・シェンノートであって、戦闘機を随伴しないわが海軍航空部隊の攻撃隊を散々悩ましてきたが、この日を最後に南京上空には中国機はその姿を消している。
 十二年九月の南京制空作戦後に、陸攻隊は九六戦の掩護下に共同進撃できるようになった。十月三日、済州島を基地とする木更津航空隊陸攻一○機と、上海に在る第二連合航空隊戦闘機四機が安慶基地に共同進撃したのが最初といわれている。
 九六戦は南京制空作戦以来赫々たる戦果を挙げ、しかも戦闘による消耗は少なかったが、基地の不整地、泥濘化のため発着の際に損耗機を出すなどのこともあり、加えて補給が続かず、十二月になっても第二連合航空隊の保有機は少なかった。
 これに対し、敵戦闘機の兵力は増勢されて一地域に四、五○機にもなり、三層の高度で待機していた。戦闘機隊の希望は、第一に、陸攻隊掩護の任務を免除されて思う存分空戦を実施させてもらいたいこと、第二に、まず最上層のものから撃墜するために、三〇機の九六戦を揃えてもらいたいことであった。
 敵戦闘機はE15とE16の空戦性能の長短相補う戦法をとった。旋回半径の小さいE15は低空に在って九六戦を巴戦に導入し、E16は高空に待機して上空から攻撃に入ってきた。多数機によるこのような戦法に対しては、僚機の付近に敵を誘い込み、これと協力する、すなわち編隊空戦の必要性が認識されたが、当時のわが編隊空戦は極めて幼稚であった。従って戦場に臨んで敵戦闘機を見れば、たちまち猛進したり、深追いしたりして編隊間の共同が乱れがちであった。(この戦訓は取上げられ、十四年の艦隊戦技において編隊空戦が新しい項目として組み入れられている)
 戦闘機隊は、十二年十二月二十二日一三空分隊長大林法人大尉、十三年一月七日一二空分隊長潮田良平大尉、二月十八日一二空付金子隆司大尉、二月二十五日一三空分隊長田熊繁夫大尉等、指揮官が相次いで戦死している。
 当時戦闘機搭乗員には疲労の色が見えていた。戦闘機隊の任務は、遠距離の進攻、陸戦協力の他に、殊に十三年一月初頭敵爆撃機南京空襲の例のように、性能優秀な九六戦は上空警戒の任務も免れることはできなかった。加えて、基地設備も十分でなく、また風土病(悪質の下痢)に冒される者が多発し、指揮官級士官戦死の一因もこれらによる過労と認められる点が多い。戦闘機隊苦難の時代であった。事変当初、上海に来襲した敵機が、下駄ばきのわが水偵隊のボロボロ撃墜されたので、わが戦闘機隊は敵の術力を下算していた。しかも十二年以降対戦した相手は、シェンノート指揮下の米国系中国空軍で、戦法を変えて対抗したのが、わが戦闘機隊を苦しめた一因である。
 ここで支那事変における九六戦が活躍した空戦を四例あげる。

十三年二月二十五日、南昌の空戦
 陸攻三五機、九六戦一八機で蕪湖を中継して南昌を空襲し、ソ連製戦闘機約五〇機と大空中戦を展開した。艦戦隊はE15一八機、E16八機を撃墜した。ほかに撃墜不確実一二機。陸攻隊は格納庫及び兵舎地帯を爆撃したが、その間戦闘機三機(うち不確実一)を撃墜した。合計撃墜数四一機(うち不確実一三)の大戦果を挙げたが、引揚げ時なお空中に十数機在るのを認めた。わが方の被害は戦闘機二機であった。

十三年四月十三日、広東の空戦
 「加賀」が三月末から四月上旬にかけて鉄道を連続攻撃実施中、英国製グラジエーター戦闘機二十余機が四月十二日広東に飛来した。この情報を得た「加賀」は翌十三日艦戦(九六戦六、九五戦三)、艦爆をもって広東基地を空襲し、白雲基地にて敵機と遭遇、一五機(うち不確実三)を撃墜している。わが方の被害は三機であった。

十三年四月二十九日、漢口の空戦
 四月二十五日南京に進出して第二連合航空隊に増援された「蒼龍」の飛行機を併せて、ようやく九六戦三〇機を揃えることができたので、蕪湖を中継して、漢口を空襲することになった。四月二十九日に、陸攻一八機、九六戦三〇機は武漢地区に進攻し、陸攻隊は漢陽兵工廠を爆撃した。漢口上空において約八〇機の敵戦闘機群と会戦し、そのうち五一機(E15四五、E16五、カーチスホーク一)を撃墜している。わが方の被害は二機であった。
 この日、戦闘機隊は一二空飛行隊長小園安名少佐が指揮官として出撃したが、一二空司令三木森彦大佐は次のように語っている。
 「自分は、小園少佐が戦闘機搭乗員として些か薹が立っているような気がして不安を感じ、直接掩護の意味にて編隊の二機には離れぬよう注意を与えておいた。ちなみに小園機の被弾六発中二発は同少佐の身体すれすれであった。」
 同日の戦闘によって戦闘機隊の士気が大いに揚り、続いて五月三十一日、六月二十六日、七月四日、八月三日に大戦果を収めた。

十三年八月三十日、南雄の空戦
 八月中、下旬奥漢線南部に対してわが方の集中攻撃が続けられ、その効果が現れると、八月二十九日敵戦闘機が同方面に集まったとの情報が入った。「加賀」は、翌三十日艦戦六機、艦爆六機で南雄を空襲し、グラジエーター、カーチスホーク戦闘機計二一機を捕捉し、艦戦、艦爆ともに四〇分間空戦し、その二〇機(うち不確実四)を撃墜し、最後には空地とともに敵機を見なくなって引揚げている。わが方の被害は二機であった。この日の空戦は長時間にわたったため、三そう島に着陸した時、燃料残量三〇リットルしかない戦闘機もあった。
 この作戦により中国空軍機も南方に誘出することが可能であると判断したが、その後は南下してくることもなく、広東攻略作戦の時でさえも来攻するものは一機もなかった。
 航空部隊の主目的は制空権(現在は航空優勢といわれている)の獲得と維持である。防空とは攻撃側の制空権獲得を阻止することである。本篇は「海軍戦闘機隊の栄光と苦闘」と題しているが、「海軍戦闘機隊の制空権獲得の成功と挫折の歴史」といい換えてもよい。この制空権獲得の有力な手段が航空撃滅戦である。海戦では、敵空母の撃滅によって制空権が得られるが、陸上作戦においては、航空基地を半永久的に使用不能にすることは困難である。基地爆撃だけによって航空撃滅の目的を達成することはできない。搭乗員を空中において、飛行機を共に撃墜することが最も効果的である。そのためには、戦闘機を積極的に活用する以外には方法がない。これが支那事変の航空戦における重要な戦訓であった。
 南京空襲及びこれに引き続いて実施された支那大陸奥地に対する戦闘機の攻勢的な用法も、空戦性能、航続力を兼ね備えた優秀な九六戦の出現によってある程度可能になった。しかし、九六戦の進出距離は二〇〇カイリ前後であったため、遠隔地攻撃には陸攻隊を掩護随伴することはできなかった。この場合、陸攻隊は昼間強襲時の被害が大きいので、多くは夜間攻撃を実施したけれども、都市爆撃(絨毯爆撃ともいわれる地域爆撃)ならともかくも、軍事施設等に対する精密照準爆撃の効果を期待することはできなかった。これらの戦訓は次期戦闘機の要求性能を裏付けている。

八、零戦の登場と支那事変における制空権の獲得

 九六戦も後継機として試作された一二試戦闘機の試作第一号機は、十四年九月に完成して、飛行実験は順調に進み、優秀な性能が明らかになった。特に長大な航続距離に着目した第一線部隊では至急配属を熱望したので、制式兵器として採用される直前、十五年七月二十一日の漢口の一二空に一五機が進出している。
 八月十九日、一二空飛行隊長横山保大尉指揮のもと、零式艦上戦闘機(零戦)隊は、宣昌を中継し、重慶に対して初空戦を実施したが、敵戦闘機は離陸退避していて空戦にならなかった。翌二十日指揮官伊藤俊隆大尉の攻撃も空振りに終わっている。
 零戦隊三度目の出撃も、九月十二日陸攻隊と協同して重慶に進攻したが、敵機を見なかった。この日、わが偵察機は重要な情報をもたらした。攻撃隊が去った二○分後に敵戦闘機三二機が現われ、一旦、白市駅基地に着陸後、再び離陸して成都方面に向かったという。
 翌九月十三日、進藤三郎大尉の指揮する一三機の零戦は、陸攻隊を掩護して重慶を空襲した。陸攻隊の爆撃終了後、零戦隊は陸攻隊と一緒に帰途につくように見せた。わが方が重慶の視界外に去った頃、重慶上空に敵戦闘機は舞い戻った。零戦隊が再度重慶上空に向かった途中、陸偵からもこの敵情報告を受け、敵戦闘機を捕捉し空戦を挑んだ。零戦隊は新鋭機の威力を発揮し、逃げまどう敵を追って、ソ連製のE15、E16全機二七機を撃墜した。わが零戦隊は四機が被弾しただけで、搭乗員は全員無事帰還している。
 この大戦果は、新鋭機零戦が当時の世界列強の戦闘機の常識では考えられない、空戦性能、航続力、火力が優れていることを如実に証明したものである。特に二〇ミリ機銃は、七・七ミリ機銃と違って一撃で機体の一部を吹き飛ばす程の凄まじい破壊力を示し、搭乗員を驚嘆歓喜させた。また、この名機を短期間の訓練で乗りこなした搭乗員の練度を見逃してはならない。人馬一体の妙技といわれるが、戦闘機を操縦する場合には人機一体とならなければ、その戦闘機の性能をフルに発揮することはできない。
 その後、漢口の零戦隊は、次のとおり昭和十五年内に成都において、二回にわたり大戦果を挙げた。その他の出撃時には零戦に立ち向かう敵戦闘機はほとんど出現していない。
 十月四日、横山保大尉の率いる零戦八機は、敵戦闘機を捕捉撃破するため、四川省の成都の空襲を敢行した。○八三○漢口基地を発進、途中宣昌基地に着陸して燃料を補給し、一一五○同基地を離陸、同基地上空で誘導の陸偵と合同し、一四一五成都上空に進入した。一四二○温江飛行場を偵察したが機影がなく、大平寺飛行場に対して銃撃を開始した。一四二五頃、戦果の拡大を期し、大石英男二空曹、中瀬幸一空曹、羽切松雄一空曹、東山市郎空曹長の順に逐次着陸して、飛行機から降りて、引込線に駈けこみ、敵機に着火しようとした。が、敵銃火の反撃に妨げられて、直ちに離陸し、銃撃を続行し、敵機を次々と炎上させた。そのさ中と地上攻撃修了後集合地点に向かう途中、敵機を発見して撃墜した。
 この日の戦果は、六機を撃墜し、地上炎上一九機、大損害を与えたもの一○機である。わが方はわずかに二機が被弾したに過ぎない。
 十二月三十日、横山大尉指揮の零戦一一機は成都飛行場群を攻撃、空中に敵機を認めず、地上の三三機を撃破、わが方は全機帰還している。
 この年の九月に、南支航空部隊一四空にようやく新鋭零戦が配備された。
 十五年十月七日、陸攻隊は海南島海口から、零戦隊はジャラム基地から、それぞれ発進合同のうえ、昆明の南の大兵工廠を爆撃し、全機ジャラム基地に帰投した。この攻撃で一四空飛行隊長小福田租大尉の指揮する零戦一一機はわが陸攻隊を邀撃しようとした敵戦闘機一五機を発見、奇襲してその一四機を撃墜するとともに、敵飛行場を掃射して敵機四機を撃破している。
 十五年は、数次にわたる零戦の進攻によって、所在の敵機を空地において、ほとんど一機も余さず掃蕩する威力を発揮した。
 十六年も、零戦隊は、空地に敵機を求め、航空撃滅戦を展開した。
 三月十四日には、一二機の零戦隊は単独成都に進攻し、敵戦闘機三十数機と交戦して、二七機(うち不確実三)を撃墜し、さらに地上銃撃によって七機を撃破した。
 この頃、偵察機の報告によれば、成都、蘭州方面の敵飛行場に常時一三〇機前後の敵機がいた。五月漢口の一二空に零戦が増勢されて四四機になった。当時としては世界最大、最強の戦闘機隊である。下旬からこの戦闘機隊は偵察機誘導のもとに全力攻撃を実施した。  五月二十日、本隊零戦三〇機(飛行隊長真木成一少佐指揮)は成都を、二十一日別働隊零戦一二機(分隊長鈴木實大尉指揮)は蘭州を空襲した。わが戦闘機隊の進撃を早期に察知した敵機はほとんど空中退避していたので、数機を撃墜、炎上させたにとどまった。
 本隊は二十二日さらに成都を空襲、別働隊は二十六日天水飛行場の地上の約一〇機を炎上させている。
 また、八月十一日には、一二空零戦隊一六機は一式陸攻隊九機の誘導により、早朝成都に突入、陸攻隊はE19戦闘機(E16改)四機と交戦して二機撃墜、零戦隊は三機撃墜、一六機撃破(地上)の戦果を挙げて全機帰還した。一式陸攻(高雄空、三○機)は、七月二十七日成都方面攻撃に初陣を飾ったばかりである。
 日米関係は日を追う毎に険悪化し、九月一日わが海軍は全面的に戦時編成に移行した。九月十五日一二空及び一四空が解隊され、零戦隊は中国大陸からその勇姿を消した。
 零戦は、昭和十五年九月十三日の初陣から、大陸を引き揚げた十六年九月までの一年間、一方的な戦果(約一〇〇機撃墜、約一六〇機地上撃破)を挙げている。零戦の被害は十六年二月二十一日に初めて、五月二十日に第二機目、六月二十三日に第三機目が撃墜されただけである。しかも、いずれも地上の防御砲火によるものである。
 九六戦はほとんど陸攻隊の掩護隊として行動し、戦闘機隊のみの出撃は数回しかなかったのに対し、零戦に替わってからは、戦闘機隊単独の作戦が多くなった。
 零戦の出現以来、その驚異的な高性能と搭乗員の名人芸ともいえる練度と闘魂は、中国空軍を戦慄させた。中国空軍機は、零戦の出現を予知すると逃避したり、飛行場外に巧みに隠匿するので、これを捕捉することが至難になった。全機数十機に過ぎない零戦は、一回の出撃機数は最大三〇機、普通は一〇機前後の機数であった。この零戦隊は、九六戦の二倍以上の行動半径で奥地まで進攻し、在空の敵機は一機も逃さず撃墜し、在地の敵機も囮機を識別して虱潰しに銃撃炎上させて一網打尽、航空撃滅の名にふさわしい作戦を実施した。零戦は中国大陸の大空を制したのである。
 零戦が中国大陸から引揚げて、三ヶ月も経たない昭和十六年十二月八日、わが国は太平洋戦争に突入した。
 日米開戦時の保有兵力の概要は次のとおりである。
(一)艦船兵力 戦艦一〇、重巡一八、軽巡二○、航空母艦一○、水上機母艦七、潜水母艦五、敷設艦一○、駆逐艦一一二、潜水艦六五、新型海防艦四、以上主要軍艦等計二六一隻約一〇〇万トン、その他小艦艇約一三〇隻、合計約三九○隻約一四五万トン。外に特設艦船等約一五○万トン。
(二)航空兵力 戦闘機六六○、艦攻・艦爆三三○、陸攻等二四○、偵察機等一○、輸送機四五、水偵二七○、飛行艇五五、以上実用機一、六一○機、外に練習機五一○機、合計二、一二○機(「第二復員局資料」)
(三)軍人員数 士官約一一、八〇〇、特務士官約三、八〇〇、准士官約八、七○○、下士官、兵約二九八、五〇〇、計約三二二、八〇〇名(うち現役約二五六、五〇〇、召集約六五、○○○、予備員約一、三〇〇)

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