第一章 海軍戦闘機隊の栄光と苦闘


第一節 草創時代(明治四十二年から大正九年頃までの約十年間)および
錬成時代(大正十年から昭和五年前期頃までの約十年間)

1、先覚者の卓見と海軍の初飛行

 我が海軍が航空に着手した真の動機は、明治三十七年日露戦争中旅順港封鎖時、旅順港内を空から偵察することの必要性を痛感したことにその端を発している。
 当時のわが海軍士官の中には、飯田久恒中佐(のち中将)、山内四郎少佐(のち中将)、山本英輔少佐(のち大将)、金子養三中尉(のち少将)など航空の研究に積極的な先覚者がいた。
 軍令部参謀山本少佐は、欧米における飛行機の進歩の状況を熱心に調査研究し、列国の航空の発達に鑑み、わが国でも速やかに航空の研究に着手すべきであるとの卓見を、明治四十二年三月海軍中央当局に提出した。これが契機となり、同年七月陸海軍臨時軍用気球研究会が発足した。
 本研究が進むに従い、海上作戦に適する飛行機を重視する海軍は、なお気球を重視する傾向の強い陸軍側の思想に同調することができず、明治四十五年六月海軍航空術研究委員会を設置した。また同年横須賀軍港内の追浜に水上飛行場を新設して研究を開始した。
 大正元年十一月十二日横浜沖観艦式に、河野三吉大尉がカーチス水上機を、金子大尉がファルマン水上機を操縦して参加、海軍が飛行機の研究に着手したことを部内外に明らかにした。

2、青島攻略戦に参加

 大正三年六月第一次世界大戦が勃発し、日英同盟に基づく対独開戦に伴い、青島攻略戦が実施された。海軍は運送船改装の航空機母艦「若宮丸」にファルマン水上機四機を搭載して出陣させ、陸軍機と共に大いに活躍して作戦に寄与した。これが海軍航空最初の実戦参加である。

3、横須賀海軍航空隊(横空)の

 青島作戦終了後、わが海軍首脳部も航空を向上発展させる必要を認め、大正五年度に飛行隊三隊を新設する予算が成立した。同年四月一日をもって航空術研究委員会は発展的解消を遂げ、航空教育機関として新たに横空が開隊した。横空と教育制度については第四章で詳述する。

4、航空充実計画の発足

 海軍航空隊令の制定された大正五年に航空充実計画が発足し、同年に飛行隊三隊(当時の一隊は常用四機、補用二機)計画の成立に続いて、同八年に五隊、さらに九年に九隊、合計十七隊を大正十二年までに完成させることになった。
 しかし、第一次大戦の中期大正五年から大戦終結後の大正十年に至る間は、八六艦隊及びこれをさらに強化した八八艦隊計画の海軍軍備大拡張の時代で、軍備の重点はもっぱら艦艇の建造に置かれ、航空の充実は再三繰り延べられている。
 一方、米艦隊との洋上決戦を目標としていたわが海軍は、大正四年英海軍に空母建造の着想があることを知り、これに強く関心を持つようになり、研究を進めていた。そして大正八年に正規空母「鳳翔」を起工し、大正十二年には、「赤城、加賀」の空母改装を行った。

5、英国飛行団の招聘と教育方針の一新

 航空関係者の熱心な努力にもかかわらず、航空の技術、用兵ともに欧米列強に比べて甚だしく立ち遅れてしまった陸海軍は、欧州大戦で貴重な経験を積んだ英仏から、大規模の飛行団を招いて講習を行った。
 海軍は大正十年英国からセンピル大佐を団長とする三十名から成る飛行団を招いた。一年四ヶ月の間、操縦、射撃、爆撃、写真、通信、航法、機体及び発動機の整備等多方面にわたり、英国空軍から学び、航空術教育の基礎を確立した。その成果は極めて大きく、海軍航空の教育訓練の方式や内容は面目を一新することとなった。

6、航空母艦時代の到来

 海軍での最初の着艦は大正十二年三月に行われた。母艦は前年十一月竣工した「鳳翔」であり、排水量は七、四五○トンである。
 着艦実験は、大正十二年二月五日三菱内燃機株式会社で雇傭した英人ジョルダンが一○式艦上戦闘機を操縦して九回行われた。一ヵ月後三月五日に吉良俊一大尉(のち中将)が、日本人として初めて母艦甲板に降着することに成功した。
 亀井凱夫、馬場篤馬の両中尉は、その年の十二月に着艦に成功し、吉良大尉と共に、着艦三羽烏として、当時の海軍で名声をとどろかせた。
 空母「鳳翔」の完成に引き続き昭和二年三月「赤城」、翌年三月「加賀」が竣工した。同年「赤城、鳳翔」の二艦に、その警戒のため旧式駆逐艦から成る駆逐隊一隊を付けて第一航空戦隊(一航戦)を編成し、連合艦隊に付属している。当時の搭載機は一○式艦上戦闘機を一三式艦上攻撃機である。これにより、それまで偵察観測などを主任務とする水上機が主体で、補助兵力の域を脱しなかった海軍航空は、空戦、雷爆撃能力を持つ空母部隊の登場によって海軍に画期的な戦力を付与することとなった。

7、海軍航空本部の設立

 海軍航空行政は、海軍省軍務局が全般を統括し、教育は海軍省教育局、機材行政は海軍艦政本部が担任し、必要に応じて委員会、調査会を臨時に設置して必要事項を処理してきた。
 しかし、航空部隊の増勢に伴い、中央における航空関係行政は次第に繁忙となり、中央総括機関設置の必要に迫られた。このため昭和二年四月海軍航空本部(航本)が設置され、初代の本部長には航空発祥の先覚者山本英輔中将が就任した。
 航本は、航空行政の総元締めとして航空戦力の急速な発展を総合的に推進し、組織も逐次拡大強化されたいった。

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